雪虫・・・飛来

IMG_8440花と虫だが        知らない時には 見えなくて 一度その名前を覚えたり 写真などで観たりすると そう日を置かないうちに 目の前に現われてくることがある。 
ひとつは ”ねじ花”だった 深沢七郎の小説”みちのくの人形たち”にその名前がでてきて、図鑑で調べその姿を知った。小さなピンク色の花が螺旋状に付いている愛らしい花だ。そんな花もあるのか・・・とさして気にもしていなかったのだが、数日後にたまたま歩いていた山道で立ち止まった其処に まさに目の前に咲いていたのである。それからはさまざまな場所で出会うことになる・・・。
そして今回の“雪虫”ということになるのだが、数日前にツイッターに出ていた写真を見て知ったばかりだった。北海道や東北でよく見かけられる、初雪を知らせる虫ということだったから、我が家のある戸隠では見ることなどないと思い込んでいた。そして昨日の朝、昼ごろからは雨になるという天気だったから、気温次第では山のうえは雪になるかもしれないな、などと思いながら雪囲いをしていると ひとつだけ白い雪のようなものがフワフワと飛んでいたのである。
 ここに”名づける”とか”意識化”することの意味があるのかもしれない。
創作とは、何も見たことも無いものを創り出すことではないようだし、おそらく その目の前のまだ”名づけられもせずに”あるモノやコトに意味を見出し、名前を付けることがその役割なのでは・・・と少し脇道の視点で考えてみたが・・・どこかで読んだことのあるなと思いなおした  
クレーか?  人の主観なんて 随分危ういものだ・・・更には 随分見落としているものもあるのだと想った。

土から土へ・・・

 

                       旅から旅へもどる
                                             土から土へもどる
                       この壺をこはせば
                               永劫のかけらとなる
                      旅は流れ去る
                                                                  手を出してくまんとすれば
                                           泡となり夢となる
                      夢に濡れるこの笠の中に
                                                       秋の日のもれる

 

 
旅人かへらず西脇順三郎 
詩集”旅人かへらず”
より

どこまで本気なのか
冗談なのか・・・
ただ この冗談には
えもいわれぬ香気があって 
好きだった

 
          ” 岩石の淋しさ ”

なんて一行もある 淋しさばかりを拾い集めて
もはや ”・・・詩の無いところに 詩がある・・・” 
と これまた外してみせる

つづく

 

大織部展

大織部展岐阜県現代陶芸美術館で行われている
”大織部展”

 

 



 没後400年ということで古田織部の茶会で用いられた道具などをとり上げている。
 また織部の”茶風” “書” ”人物像” ”同時代の焼き物”など 織部の全体像を浮き彫りにする論考も時機を得て充実したものに思えます。
 漫画”へうげもの”の人気もあって訊ねた日には子供連れの親子の姿も見られ幅広い客層にいささか驚いたが その展示されている”物”は期待通りのヘビー級揃い・・・ 志野・瀬戸黒・織部などの茶碗はいうに及ばず 竹花入れ・茶釜など 織部の茶を俯瞰的に把握でき、その中での織部焼の立ち位置をとらえることが出来た。

 10月26日まで 織部好きには必見の展覧会‼

 ★井戸茶碗・御所丸茶碗などもこのような機会に体系的な文脈のな   かで観ると その良さが一味違って味わえました。

大織部展の会場に行く前に 一年に一度は訪ねる織部や志野を焼いた窯跡に墓参りに行くような気分でいった。IMG_8268

大平窯の物原

 

 

 

 

 

IMG_8291写真は大平窯と元屋敷窯・・・大平窯はその稼働期間が長かったこともあり膨大な量の遺棄された焼き物や窯道具が広範囲に露出し、現在は立錐の余地もなく林立した孟宗竹の籔と化している。                
                 元屋敷窯の窯跡

他に高根山の古窯跡や隠居山の穴窯のあとを訪ねた・・・・・・・・・・・・
花々しく展覧会の会場に名盌として名を連ねているものも出自を訪ねればこれら多くの窯のなかで炎に拠って命を吹き込まれた”物”なのだ。
どうしても作り手としては、ここからイメージのへその緒を辿らなければ
辿りつけない茶碗の姿というものがあるように考えている。