★織部は、ほぼ12の種類に分けられる。たぶんこのジャンルに、はいらない物もあるに違いない。
それは後付けでのジャンル分けだから・・・。思い付いたアイデアを躊躇いなく 作ったということが 本当のところでしょう。
織部黒
高台周辺を残し鉄釉をかけ1200度前後で釉が溶けたとき、窯から鉄の棒あるいははさみ状のもので引き出したもの。鉄釉が急冷されることで、黒色となる。(この手法そのものは初期瀬戸黒として天文年間からある。)
茶碗では沓型が多いが筒茶碗もある。初期の物ほど大振りで且つ完成度が高いのではという思いがある。益荒男ぶりがいい。
数は少ないが茶入・香合・水指もあり。長石を口縁などに二重掛けしたものも散見する。ぼくは、花入れ・向付(平・筒・小向)も作った。
※(天文年間・1532~1555)
黒織部
鉄釉をかけ残した窓状のところに鬼板で絵付をしたものが圧倒的に多いがなかには絵付をせずに鉄釉を施したところを釘状のもので引っ掻いてユリなどの絵を描いた茶碗もある。そういえば茶碗の見込みに三味線の彫絵!なんて代物もあった。また洒落た文様を紙で切り、器に貼り、釉掛けした白黒のコントラストがモダンなものもある。(左写真)
焼置きで褐色に近い色調のものもこうよぶことがある。柿織部といったか。
発色の違う鉄釉を2・3種用意して重ね掛けや掛け分けをしたりもする。
青織部
銅を発色剤とした緑釉を器の一部にかけ残りの場所に鬼板(鉄絵具)で絵付をしたもの。計算していないようで細部まで気が行きとどいているのが織部だ。形や絵付けのモチーフは、染織や漆絵また海外貿易ではいってきた更紗・竹工芸・中近東からの陶器・ガラス器・金属器など手にはいるものを土という素材ならではのアレンジで(置き換え)をしたのではないだろうか。
確か水滴に百足(むかで)の絵を描いたものがある。孟宗竹の林が多く大きな百足がいる陶郷でもあったが、家紋からの転用とも考えられる。
桃山期では茶碗・水指(水注はある)・花入れはほぼ見ない。
総織部
緑の釉一色のもの。江戸初期の窯ケ根窯に器体に線彫りの絵を描いたものがある。ここは、元屋敷の窯に比べると織部を焼くために格段に進化した(酸化域が広い)ような窯である。僕は、花器などを総織部にする。
緑の発色を程良いあがりで採れるのは、僕の登り窯だと窯全体の3割程度、1250℃±20の温度域のわずかな場所にすぎない。不安定?な釉である。
鳴海織部
白土に緑釉を(絵付部分を残すこともある)赤土に絵模様(白泥で内側を埋めた)を描く手法。青織部よりさらに窯中で場所が限定されるのがこれである。ただ綺麗にあがった物だけがいいとは思っていない。そのキレイは限定的なものでしかない。鳴海織部を赤織部とも呼ぶ。(鳴海という呼び方が誤った認識から明治以降?使われることになったからである。)また、織部の名品といわれる物にこの鳴海織部が多いのも、色彩の諧調が豊か
であるからか。茶碗の内側に鉄釉を施したモノもある。
赤織部
赤土に白泥で絵を描きその周囲を隈どりなどしたもの。窯のなかでも火裏の温度の低め(1170℃~1220℃)の尚且つ酸化の場所に置く。
温度の低いほど、赤(赤松の樹肌の色)の発色は鮮やかである。元屋敷窯の生焼けのものを焼き直したことがあるが長石単味で1200℃弱で十分に溶融していた。。・・・あんな長石が・・・欲しい。
この器は小向付・練り込みのもの。
志野織部
登窯で焼いた志野。ぼくは窯の中の炎にさらされて尚且つ温度(1300℃前後)の場所に置いたものをそう呼んでいる。いわゆる、志野よりも焼成時間が短いこともあり、ふっくらとして火色の出たようなものは採れないが、カリッとした好男子的な(ひいき目か)ものができる。紅志野系が、味が出る。
絵織部
写真ように同じ作りだが窯のなかの置き場所で焼きあがりが悉く違う。
長石釉だけの施釉なので窯のどこに置いてもそれなりにあがる。窯づめに悩むときは、トリアエズ絵織部としている。同じように窯詰めに重宝なのは灰釉とか鉄釉です。やはり歩留まりを良くする工夫が生活の向上?に一役かうのである。
弥七田織部
大萱の牟田洞の北側、小高い山の斜面に弥七田窯がある。この窯は織部でも晩期に属し、食器類の土は良く焼き締まるもので薄手。洒脱・モダンとの形容がもっとも相応しい仕事をしている。
この窯の特徴ということで、緑釉のタラシかけがある。緑を面でつかわずに、線で使うという感じ。豪快な?織部から瀟洒なものに変わった。
これは燭台、火前に置いて灰も被っている。
伊賀織部
桃山の水指や花入れは、上手の竹工芸の籠などを形だけ写したものを見かける。というか「崩し写し」とでもいうか「やつし」というのか。「
草化」というのか。同様の形態が備前・伊賀・や唐津でも作られているから、「このコンセプトでいきましょう・・・」と誰がいったか、作ったか。
志野の鉢なども竹製品を思わせるものがある。伊賀織部は、そのような、形のものに部分的に白化粧し薄く透明釉をかけ、鉄釉を数条流したものである。僕は作らない。美濃伊賀とも。写真は桃山の水指。
唐津織部
数は少ないが絵付けや焼きあがりが唐津に似るということでこう呼ばれる。
確かに絵付けの筆使いが「これは唐津でしょう」というのがある。
李朝民画を髣髴とさせるという意味で。ただ、線引きの難しいカテゴリー だ。 美濃唐 津ともいふ。写真は桃山の筒向付。
黄瀬戸織部
江戸初期あたりに菊皿手の灰釉皿の縁に緑釉かあるいはタンパンを施した皿が沢山作られている それを黄瀬戸織部と呼んでいた
沓茶碗も作られたが数はいたって少ない
熊井陶料さんで以前に頂いた黄瀬戸の調子のいい釉薬があったので茶碗を作った 施釉後タンパンを盛大に塗り更にそこに銅を振った
※ぼくが作った物では、漆織部、銀彩織部、銀彩織部黒、剪紙手織部(切紙手)、彫絵手というものがある。切紙手は昔からあ る。これは、その展開性から1ジャンルとしてみてもいいような気がする。白織部・鼠織部・練り込み織部、先般の柿織部という呼称もある。
※茜織部なんて付けたこともあった。緑釉部分が還元で真っ赤になった手鉢だったか?そのときはそれでいいと思ったのだが、窯を改造したためもあって最近ぱったり出なくなった。無茶な窯詰めもしなくなったのかもしれない。
先日はありがとうございました。
少し薄着で上京しましたら、ちょっと風邪をひいてしまったようで、いまは大事をとって
寝込んでいます。
20年ぐらい風邪などひかなかったのに・・・。
先生も御気を付けください。
先日購入の片口はちょうどいい大きさで、毎日お酒をひたしています。