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5/24~28 しぶや黒田陶苑さんにて個展

青織部平向付 桃山時代の物の写し5種
狛犬阿吽 今回の制作で古い物の作り方はほぼ理解できた
命の徒のめでいしことのいとなみのはな、うを、しし、土の神さぶ (琳譜) 琳譜さんの歌が好きで今回も使わせていただいた

毎年行っているしぶや黒田陶苑さんでの個展も30回を超えている。毎回同じところで個展が出来ると云うことは作り手にとって積み重ねの様子が窺えるまたとない場所である。
本当に感謝にたえない。
いままでは織部の道具の種類の多様さを追いかけて「小山くんは、楽しそうに織部を作っているね~」などと声を掛けられることが多かった。それは、どんな方法論が基本にあるのかの僕なりの手探りの制作の結果だったのだけれど・・・。
あまり浅学の身で生意気なことを書くと足元を掬われるので控えた方が良いのだが元来身の程知らず、恐い物なしでやってきたのでその辺りのこともこの際ここに書いておいても良いかもしれない。それにそろそろ道具の作りを掘り下げてゆくことにも力を注いだ方が良い時期かもしれないと思い始めている。
そんなこともあって、一昨年辺りから古典の写しを改めて作り始めている。伝統芸能でも同じ演目を年齢のそれぞれの節目に演じているように作ってみたい。
・・・・つづく

瀧口先生が亡くなられました・・・合掌

先生が亡くなられた・・・1月19日   享年88歳。

先生の元に居たのは僅か6ヶ月だから、師というのも先生と呼ぶのも憚られるというものだが、紛れもない師でした。僕の焼物の仕事を決定づけた人は他にはいない。45年のお付き合いだった。僅かな時間しか居なかったので細々とその頃のことを覚えている。
初めてお目に掛かったときに「これも縁だから車の免許だけとれたら来て下さい。」といわれてならばと、築地でアルバイトをして日当をもって教習所通いをして車の免許を取った。ハイエースをレンタルして雨の日に高速道路を走って、可児市の山中に荷を降ろし、名古屋まで車を返しに行った。ステレオとロッキングチェアと本と寝具を持って行ったので「今どきの弟子は、荷物が多いな~、僕の時は風呂敷包み一つだった。」と言われてしまう。大きな背の高いクヌギ林の中にある先生手作りの家で屋根にはブルーシートが雨漏り対策で被されていた。(瓦で葺いてあるが、拾いもので雨漏りがするのだ)と言っていた。晩ご飯が済むと歩いて3,4分の下宿に帰るのだが、月明かりも無く真っ暗闇で何も見えない、手探りしてもどっちに行けば良いのか分からず、懐中電灯を借りて帰った。嗚呼こんな闇というものもあるのだと知って感激していた(まあ良い時代だった)。 3歳と1歳の子供たちがいた。遊び相手と道普請と石垣作りでほぼ5ヶ月が終わり先輩が四年の修行が終わり独立したので窯作りの手伝いに車で30分ほどのところまで毎日通っていた。その時の築窯の方法を克明に記録していたものがあってその後大変役にたった。そこまでで僕の修業時代はぷつりと終わる。
おそらく、焼物屋の暮らしぶりというのを教えて貰ったのだと思う。その後は無意識に瀧口先生の暮らしぶりをトレースするようになる。「刷り込み」とい事だろう。

・・・最期にお目に掛かったのは2年前頃だったと思う。何かの切っ掛けでお電話を差し上げてその時にもう薪の窯を焚かないからうちにある薪を持って行かないかと言われ400束ほどを頂きに行ったときだった。帰りしなに「これが最期になるかもしれないね~」「元気でね。」と声をかけてくれた。45年という焼き物生活の間には、語り尽くせない程の思い出がある。感謝に堪えない。私信(昨年のもの)を載せるのは、失礼かと思ったが行間に優しさが滲んでいる文が好きなので思い出に・・・。

合掌。

 ※陶芸なんて、フラワー産業だから戦争でも始まればたちまち 食えなくなりますよ
 ※この車は、ラジエターに穴が開いているから乗るときには必ず水を入れたヤカンを持って行ってね
 ※小山君のところに電話するときには必ずボーンボーンて、柱時計がなるね~ハハハ (まあ 1時間以上は必ず話していましたからね)
 ※焼物屋が焼物の話ばかりしていても、駄目だよ。
 ※僕のところに、半年居たって事は余所の2年分ぐらいは居たと思って良いよ。 焼物の先便を打ったから・・・
(まぁ、そういわれてもね~ とその時は考えた)
 ※12月の窯場での水仕事、外回りの雑事を終えて木桶の風呂に入ると冷え切った身体がいつまでも温まらない・・・「君は寒がりだね~・・・」と言われても 実際寒いのだ
※焼物に使う道具は、全て自分で作れるからね・・・ (この言葉にはハッとさせられた)


 ※・・・まだまだいろいろ思い出しそう