「思記」カテゴリーアーカイブ

織部について (緑色考)

どうも 高血圧真っ只中のようで今日は、気ままに過ごすことにした。

織部については、固定ページに色々書き連ねているけれど、内容の更新はしていないので、訂正しなければならないところもあるかもしれない。
それはまた後日の作業として・・・。

緑の色一つとっても、「緑」は不思議な色相だ。「もののけ姫」の中で宮崎駿さんは、6000種の緑色を使い分けたと最近知った(聞いた)本当だろうか。6000色?という色相とは…と訝しく思わないでもないが、緑とはそういうものだとも考えられる。日本の四季を通して緑とは補色の赤まで、変幻する色彩なのだと思う。緑とは単に一つの色ではなく四季の移ろう姿(色)の総称のようなものなのではないのだろうか。
登り窯を焚き始めた当初から、窯の中で焼かれた織部釉には、四季折々の色合い(発色)があると考えていた。だから「綺麗なミドリがいいな」とか言われると 「綺麗って何?」と問い返していた。分かりやすいからといって「ザ、緑」みたいなものだけ追いかけて多様なものを捨て去ってゆくようなことは、出来なかった。織部焼の多様性は、形や文様だけではなく、色の変化にもいえることなのだと思っている。
五行思想を背景に、焼物(器)に青(緑)・黄・赤・黒・白 ・・・五色が揃った(揃えようとした)のが 桃山時代のの美濃陶ではないだろうか。

【五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は七曜の命令)の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。】ネットから

         続く

ひさびさの投稿 なめこのこと等 

なめこ

ことしも 榾木(ほだぎ)に菌を打ったものだけれどナメコが出始めた。3年前の誕生日の娘からのプレゼントだ。
「これ ことしの・・・」いつもは衣類が多かったと思うが、その年はホームセンターで買った榾木と菌の駒が届けられた。
榾木にドリルで穴を掘り菌の駒を打ち込んで養生しながら2年の昨年からキノコが出始めた。山の中でキノコに出会うのも楽しいが、あらかじめ予定されていたとはいえ、頭を出してから採り頃になるまでの様子をうかがっているのは、それだけで幸せな気分を味わっている。
家の前の150坪ほどの土地を貸していただいて、野菜なども作っている。10坪ほどを開墾してトマトなすピーマン胡瓜ゴーヤ里芋イチゴ山芋アスパラ人参ジャガイモ長葱オクラ唐辛子ダイコンを作っている。
ことしは天候の不順のあり、物によっては極端に出来が悪かった。

里芋

里芋は葉は立派だった。
芋は左程大きくはなかったが頗る美味しかった。

 

 

 

 

気が付けば 年の暮れ

忙しくて・・・と言いながら何が忙しかったのかと
少し脳圧をかけて考えねば、答えが出てこぬ始末。
身長も15ミリほど低くなったし、血圧も高くなってきた。
全体に老化現象が顕在化している  ・・・けど そんなに悪い感じはしていない。やはり、いま起きていることに対してどう対応すればいいのか・・・を考えるのを面白がっている。厄介度指数が高いほど面白いというものだ。

様々な問題が現れては消えて、それが常態化すると不安や問題を家畜のように飼っているような感覚になってきた。不安が卵を産んだり、問題から乳を絞り出すようなものだ。
この感覚は、若いころにはなかった。一つ一つ解決する快感はあったかもしれないが、放っておいて、勝手に解決(生育)するのを蟻の行列を見るように眺めている心境。年を取るというのは、満更悪くない。これからは、須らくこの手で行こう。

矛盾の木の実。矛盾の放牧。


アニミズムについて

アニミズムの概念については、少し補足が必要かもしれない。
ネットで調べればある程度のことは、調べも付くけれど、また一般論で語られると、的を得ないところも多いのではないだろうか。
先般、炎芸術紙上で香雪美術館の梶山さんに僕の仕事の紹介記事を丁寧に書いて頂いたのですが、一点だけ訂正をしてほしいところがあった。それが、アニミズム(精霊信仰)というところだった。
一般的にはそれでもいいのかもしれないけれど、僕の感じているアニミズムとは、だいぶん違う・・・が、他に適当な言葉がないので便宜上そう使っているという、なんともな現実がある。
最近SNS上でこんな文章を拾った。

アニミズムとは、人間にのみ閉じていないで世界の外に人間を拡張する思想。ただそれは、人間の知性を単に拡張した動物のみの保護を唱えるような思想なのではなく、一切は衆生であり悉有が仏性だと説く禅思想に近い。
(内藤寛さんアニミズム談義)

タイラーが「アニミズム」を論じた本は”Primitive Culture”、日本では『原始文化』と訳される。しかし、岩田慶治や今西錦司が考えていたのは”primitive”(原始的)な何かではなく、”primordial”(始原的)なものだ。原始的なものは進化する。しかし、始原的なものは、普遍的な何ものかである。
(若松英輔)
どちらも精霊信仰といった旧来のアニミズム觀とは大変な隔たりがある。

そもそもアニミズムという言葉に出会ったのは、結構遅くて1990年あたりだったか、比較人類学者の岩田慶治さんに出会ってからだ。たまたま購読していた国立民族博物館の月刊誌に岩田さんのインタビュー記事があって、彼の描く世界像が探し求めていた土方巽の描いた舞踏的なる世界にピタリと重なったからであった。・・・・・こう書いたからといって生前二人とも、その世界を明快に言語化されたわけではない。ある種明快にすることを回避していたようにもまた見受けられる。
土方さんは、アニミズムという言葉すら記憶する中では、一度も使っていない。
岩田さんは、草木虫魚教とも森羅万象教とも云えるような世界だがそこを言い尽くす言葉に出会っていないともいう。

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土方巽は、舞踏譜で踊りを作り上げるそのモチーフに、森羅万象対象にし用いた。それに、人の五感とそこを取り囲む空間とそのテクスチャーを織り込んで舞踏譜を作り上げた。日常の出来事を解像度を上げて見て、感じて顕れるものを克明に描写したところに、土方舞踏の根幹がある。

続く