森温理 について 

55才頃
55才頃

《 大盛況のうちに終了いたしました<m(__)m> 》
御出で頂いた皆様 有難う御座いました
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路地裏の孤高の画家 
絵の中に生きた 森温理展

長野市 北野カルチュラルセンター
2016 10/15~11/13
入場無料

同時開催 
各種店舗13店に温理作品を1点づつ展示
日常の空間でも見て頂ける・・・・・・
街中ギャラリーも やっております‼

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「ものを創り出す悦び、創造の悦びは、いつぼくに来る。毎日毎日ぼくは悪戦苦闘の連続だ。妥協は絶対にしない
・・・ぼくは、いつも裸だ。ぼくがその結果どうなるのかは、  ぼくは知らない。」               緒方真太郎宛 書簡より

 

 


【森温理とは 誰だったのか・・・というほどの月日が流れている。】 

「森温理展」が始まる。いかなる権威・経歴からも遠く・・・純粋に彼の人柄と絵の魅力が、この展覧会に導いたといっていい。もちろん深く思いを寄せて頂いた方々の尽力なくしては結実しなかった。亡くなって28年、今ならば・・・「 幸せな人だね—‼ 」と言ってあげたい。
 ・・・故郷の地で、新たな理解者を得る機会が与えられたのは、なによりも嬉しいことである。
「えっ 僕の絵がかい・・・へぇ・・・」とでも とぼけそうであるが。

・・・この風貌と声と仕草と口癖が…また記憶に蘇ってくる・・・

   温理頌                                          朝倉征男                      

・・・オンリは無論ただの人だった。今時のえかきがどちらのタイプが幅をきかせているかは、言うをまたないが、虚栄や自己疎外から解放されたこころある道を進むものであった。彼の絵に対する情熱は《生きがいと云ってもいいが》真摯であり、その同じ絵心を持って人生の謎の数々に挑戦し続けた常人の及ばない偉大な素人だった と思う。そのことは、彼の残したかなりの数の絵画や日記、手紙類に明らかにされているし、何よりもオンリと一緒に過ごした思い出を楽しく呼び起こすことのできる、少なく無い友人たちが認めることだろう。 ・・・彼の武器は長年培われたハングリーな精神のみだといっていい。なぜならかれはどんな物質的な欲望ももたなかったから。方丈のアトリエで寝食の時間を忘れ、新しき命の創造ともいえる絵画の誕生に、全力を傾けることができるように、しばしば忘我の境にいた。・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年譜 
        {※画文集からの年譜の引用部は、野原未知による数回の鈴木伸太郎氏への聞き取りなどに
         よって得られた情報が元になっております。}
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 M42・3/1   栃木県塩谷郡喜連町鷲宿(現・さくら市)で生まれる。本名  森 隆

T4          大田原市佐久山2243 実相院・慈雲寺に移る。

S3/3/3    大田原中学校卒業・肺結核で7年間の闘病生活を送る。もともと身体の虚弱な子供であったらしい。その間、俳人でもあった敬愛する長兄(大暁)の蔵書などで文学や絵画に親しむ。また、望む書物は何でも揃えてくれたと聞いている。(小山) 美術雑誌・文芸誌などに掲載されたピカソ・クレー・ミロなどの絵画にも触れ?、その後の温理さんの生涯を決定した時期といえる。
S15       東京日暮里 太平洋画会に学ぶ。(野原)
 この時期の日記(1936~1939まで)が残る。 内省的な箴言・赤裸々な想いの発露、文学についての思索、友人との交遊が記述されている。絵画に関する記述はない,何故だろう。 国際劇場・松竹歌劇団でも働いていたようだ。
S16       [株]小学館文芸部入社。(野原)
《この頃のことだろうか、鎌倉の川端康成の家に原稿取りに行ったり星が岡茶寮に出入りしていたというのは…》 (小山)
S20       終戦後退社。小説家を志すが、体を痛めて中途で断念。(野原)
《この頃のことだろうか、参加していた同人誌に若き池田大作がいた。》と言っていた。(小山)
S26       日本交通公社 (旅)編集部に出稿。(野原)
S28       この頃から同県出身の画家、鈴木伸太郎氏と親交を結ぶ。また、太平洋画会にて素描を学                  ぶ。又、易も学ぶ。(野原)   この時期の日記もあり。
S39.41    山や湖に仲間と頻繁に行った様子が写真に映されている。
(相模湖にて)
画文集に納められた鈴木さんの記述からそのころの様子がうかがえる。

「新宿ゴールデン街に仲間のたまり場があった。みんな素面でまともな顔では稼げるような人たちではなかった。毎晩血の出るような思いの酒を飲んで普段の鬱憤を酒に紛れて荒れ狂ったものだ。その酒癖の悪い人々のなかでは、森さんの酒は定評があった。いつも理路整然として終始楽しそうに飲んでいた。ときには仲間でのみ明かし、そのまま朝一番の電車に乗り込んで山歩きに出かけたりもした。・・・」

 この温理さんの姿はそのまま、長野での暮らしに重なる。

S46・8     鈴木氏と2人展(東電サービスセンター)
S47       長野県長野市横沢町91の2 泉荘に転居。 温理に先立って東京時代からの友人であった上安
 さん(油絵も描き、易者も一緒にやっていた)が、長野市に移り住んでいたらしい。(葉書より)
 この道路を隔てて北側に善光寺の宿坊などが立ち並ぶ。 

S48       東京銀座フタバ画廊で個展。この前後については日記に詳しく書かれている。
《この一年間が日記として記録がある。》

S53       長野 ロートレック画廊で2人展  「オンリとみっちの絵画展」
若い野原未知との二人展 苦悶を続ける日々の制作のなかでも楽しい会であったに違いない。
写真家・栗田貞多男さんが1点購入している。
S54       長野 ナジャで個展 (温理の親友、朝倉征男の店である。小山が1点購入している。)小さな店であったので、6・7点の展示だったように記憶する。

朝倉征男の店「ナジャ」ブルドンの同名小説からの命名だが正しく不思議な泡のような人たちが現われては消えて往く場所であった。
朝倉征男の店「ナジャ」

 今回 画集の表紙を飾る 僕が「緑のマドンナ」と呼ぶ絵も飾られている。
左端が朝倉 中央が温理 その隣にいるのが仲良しだった「和ちゃん」 ・・・私事であるが朝倉の背後の壁面に僕が求めた「白塗りのニジンスキー」が懸けられていた。

 

 



S57 1・1
     s47~s48の日記を読み返して自らの「制作に対する思索」についての記述が日記に残る。

(1982) 「今日、日記を読んでみて現在と同じようにやはり必死になっていたことが分かった。この10年の
      空費がいたましいが、・・・ただ、まだまだ未熟で未完成なものだが、これこそ自分の画だといえ
      るも
のが出来てきたということだ。私はやっと、その地点にたどりついたのだという感動が、たま
      た
今日十年前の日記を読み返すことによって、とくに感無量である。」

S63    1988年制作の画も8点確認されている。新聞紙に描かれていて特定できたということで実際の制
     作数は、それより多いと考えられることは言うまでもない。
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 H1・
2/28
    長野 小島病院にて死去。(嚥下障害による)
3/1       区長さん<山口さん<  鎌倉さん→江沢夫婦・岡沢・竹川なを子・小山夫婦
に連絡があり部屋の片づけをする。一時鎌倉さんの家に絵を預ってもらう。
3/2     松代斎場にて荼毘にふされる。実弟森鮮朗氏妻と甥・羍朗さん  鎌倉・江沢夫妻・竹川なを子・岡沢・小山夫妻が骨を拾う。火葬の際、虚鐸(尺八)の吹禅を鎌倉さんが行う。この時に、羍朗さんより温理さんの絵など持ち物は、全て皆さんで好きなようになさって下さい・・・と口頭で言われる。                4/15    森温理を偲ぶ会 ロートレック画廊
この時、温理さんの絵を今後どのようにしていくか話し合われる。
5/28~6/10 森温理遺作展 ロートレック画廊 
(森温理の会発足)  多くの友人・知人が集まる。伊藤公朗によるシタールの演奏もあり。
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H2.
2/28  一周忌で偲ぶ会を開く。
このとき画廊主山口さんより200点余の温理さんの絵を温理の会に委託してもらう。(これらの絵は、温理さんの部屋の荷物撤去の際に運び出してもらった物)
H5.
6/17~29  「温理と仲間達展vol.1」信濃文化倶楽部
(鎌倉俊文 栗田貞多男 野原未知 小山 ) 出品
この時の様子は、画文集に信濃文化倶楽部の武井さんが詳しく書かれている。
「森温理画集」に再録される。
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H7・
8 ・21~9 ・3 「森温理回顧展」 豊野町役場別館ギャラリー  
画文集 森温理 刊行 (野原未知 企画編集による) 《野原未知の尽力により友人たちの文章も      寄せられた。》刊行に併せて長野市豊野で記念展を行う。 画文集には、朝倉、緒方、鎌倉などの貴重な  交友の記録が残された。
H8・
1/16~21  森温理とその仲間達展【24人】 長野 ギャラリー82
温理さんにとっては、息子・娘ほどの年の差がある仲間たちが集まった。広いギャラリーホ-ルで本木さんの「踊り」なども行われ、多彩なメンバーが集まった。
森温理と仲間達24人展

鎌倉さん 虚無僧
鎌倉さん 虚無僧

 

 

 

 

 


思い返してみれば 不思議な光景だったのかもしれない。 温理さんは、易者 清貧 売らない絵描き 三拍子揃ったようなヨレヨレさじゃないか。 彼が彼らに慕われた理由は、それぞれでわからないが苦汁を舐めながらも 自由(絵画制作)に生きようとした彼への共鳴だったのか ・・・漂泊の魂への野辺送りだったのだろうか。僕などは、ヒヨっ子でしたが、おとなの付き合いの仲間も居たようです。やはり黒いベレー帽をかむり易者であった上安さんというかたでした。油絵を描いていた。二人が並んで川釣りをしている写真が残っているがそれはあたかも「寒山拾得」のようでもありました。
この案内状を、森羍朗さんにお送りする。折り返し改めて、絵の所蔵についてはこれを放棄する旨のお手紙を頂くが、長い時間経過のなかで破棄しています。
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H9
この時期か? 絵が千曲市の根本協子氏の下に預けられる。…長い冬眠に入ったかのように。
彼女に聞けば、冬には結露を防ぐために除湿もしていたようだ。絵が良好な状態で保たれたのは、このよ
うなことも大きな要因といっていい。感謝‼

H16.6 小山が佐野市のギャラリーで個展をした折、店主の藤田さんが偶然大田原市出身の方であったので、温理さんの生家実相院に連れていっていただき、墓参りをする。寺の近くを少し大きく素朴な川・箒川が流れている。 善光寺と裾花川・・・温理さんの生活の場は郷里とどこか似ていた。

H20 初頭か?あるいはH19か、本木幸治氏(ヴィオパーク劇場主宰)から温理展が出来ないかとの打診がある。 この提案を受けて絵の最終的な帰着点のことなど考えるようになる。我々はいずれ居なくなるが、 絵は残るからである。

H20.
10年近く絵を預かってくれていた根本さんの家から松本のヴィオパーク劇場に全ての絵を移す。小山と竹川寛子・根本でおこなう。 劇場に拡げられた絵は、その生彩を失ってはいなかった。
 ☆本木さんがなぜ温理展をやりたかったのか聞き損じたが、こんなことを言っていた。 「俺はさぁ いろんなイベントをやるたびに意見や考えの違うヤツ同士が後で仲間割れするのを見ていてうんざりするんだよ・・・何のためにやっているのか わかんねぇや。・・・で、画集にはどのくらいいるの・・・」 「150~200万ぐらいかな・・・」 「じゃ 俺が絵を買うからそれを軍資金にしてやろうよ・・・」  こんな打ち合わせだった。  新たに作った劇場での企画展の一環として考えていたのだろうが・・・。「松本市立美術館にも当たってみるよ・・・」とも言っていたので、なにがそこまでさせるのか少し不思議におもったのを覚えている.

H20
.7  藤田さんを通じて栃木県内の美術館で温理さんの絵を受け入れてくれるところなどを当たってもらう。また、どんなことが可能か、あるいは問題があるかを調べる。(改めて所有権の問題などが浮かび上がる。)    小山の個展(佐野)に合わせて会場に温理さんの絵も数点飾る。その折、絵のコレクターの人が 「こんなに味のある絵を久しぶりに見ました。」と言って下さる。正直なところ、僕自身は温理さんの絵に関して客観的に見ることが出来なくなっています。

H20・
9/25   藤田さんと小山で大田原市役所を尋ね、絵の保存のための委託あるいは画集 出版 程度の買い取りは可能かを打診する。 【担当者植木武さん】 実相院に寄り温理さんの墓参りをし、森和子さん(甥の妻)とお会いする。

 H20・
10/3~19  森温理遺作展 松本 ヴィオ・パーク劇場
 【画集出版を目的に賛同者に絵の販売を行う。】
 ☆画集出版に拘る理由は他でもない森温理が生きた証を残すためである。
 ☆森和子さんに温理の会についてや画集出版の話などを書いた手紙を送る。後日、夫が健在ならばきっとこうするだろうと画集出版資金の足しにとカンパが寄せられる 。
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ヴィオパーク劇場

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H20.
12/6  本木さん突然 心不全で亡くなる。
H21・
4/30~5/2    森温理展 “生誕100年”《故郷にて》    大田原市ハーモニーホール  (藤田企画)
実相院のご家族もみえられる。若住職と良く似た顔の絵があることや風景画に描かれている山・森・ 池(灌漑用の大きな池があるらしい)・道が大田原の景色に似ている気がした。温理さんを覚えているという実相院のご近所の老人もみえた。  このときに絵を買われたさくら市の滝沢さんが後日さくら市ミュージアムに温理展を推挙してくれることになる。
H21・
5/5~5/12                    
同上                         佐野市ギャラリーファンタジア

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H22.
3.11
   東日本大震災

H24
.11/20  さくら市ミュージアム学芸員の大木礼子さんから温理展開催の打診あり

H24
12/14 
ヴィオパーク劇場にて中野さん(さくら市ミュージアム館長)と大木さんと会い 打ち合わせ。( 竹川なを子 竹川寛子 小山 )
H25・
2/28   
森温理展実行委員会の集まりを長野『まぜこぜ』、にておこなう。       
※ 鎌倉さんのもとに画帳に挟まれた温理さんの絵160枚ほどがあった。
竹川なをこ 鎌倉俊文 江沢正雄 根本協子 野原未知 竹川寛子 小山  (長野のメンバー)にて       他に 栃木県での委員参加を5名を予定.       
※鎌倉さんから若干の温理の資料が送られて来る。

H25.
3/17  
 さくら市ミュージアムから 2013・11・2~12・23 の期間で森温理展が正式に 決定した旨の連絡がくる。
3/23 
 栃木県 実行委員会メンバー決まる 。       
岡一雄さん 滝沢尚さん 村上進さん 森睦朗さん 藤田富貴子さん 

4/5    
実相院を訪ね、墓前に展覧会の報告(藤田・小山)
           ※これは、小山の佐野市での個展に合わせて行った。
4/6   
ミュージアムの大木さんとスケジュールなどの打ち合わせ 
4/7   
岡さんと顔合わせ

 

5/22
信濃毎日新聞紙上にて
温理展の告知と絵の所蔵者へのお願い

 

 

 

 

 

 

 6/5
絵の所蔵者から絵を預かる作業。(小山)
 山﨑さん・長島さん・池田さん・前田さん・塚田さん・・・山﨑さんの手元に温理さんの大量の日記のコピーがあった。これは、山﨑さんが詩人でもあったことから温理さんの日記の内容に興味をもったからだ。原本が失われたいま、貴重な資料が現われたことになる。日記の内容はこれから精査するとして昭和9年頃のものと昭和47/48年の長野に移り住んだころに分けられる。A4で280枚ほど・・・温理さんの蔵書に昭和7年?に出版されたボードレールの「赤裸の心」堀口大学訳 がある。書きぶりはそんな感じだ・・・箴言めいた思考の軌跡と友人との交遊などが書かれている。他に 岡田さん 高木さん 堀米さん 田中さん から預かる。
栃木の絵の回収は、藤田さんにお願いする。
6.15
ヴィオパーク劇場にてミュージアムへの絵の搬入の段取りをする。
(長野実行委員会メンバーと大木さん。) 契約の内容 カタログの構成などの打ちあわせ
鎌倉さんのもとにスケッチ帳に挟まれた絵が更にまだあった。4冊?ぐらい・100点?
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6.20~6.21 
松本・ヴィオパーク劇場から、さくら市ミュージアムに絵を搬入。 
積み込みに2時間。

 

 



無事到着。・・・ここに 温理さんが帰って来たという感慨めいたものがあった。
・・・・・・・・・・・・
鬼怒川の脇に建つ 素敵な美術館だ。
温理さんは果報者である。ただ、搬入した絵のチェックに時間がかかり一泊。

 

 

 

 

 

なつつばき 勝山城址 鬼怒川の眺め …                                 
展示スペースの説明 ・ 荒井寛方さんの絵などの解説を
していただく。帰り際に 偶然、滝沢尚さんにもお会い出来た。
滝沢さんは、ミュージアムに温理展を薦めてくれた方だ。
今回の展覧会が「温理さんの供養になれば・・・」
と言ってくださる。

☆ ミュージアムには量的に大変な仕事  (作品番号付け、写真撮り、採寸、制作年代チェック)がありました。

8.13       さくら市ミュージアムより全作品の撮影が終わった旨の連絡がある。1340点・・・内所蔵90点 
なし1250点・・・の撮影でした。当初800点程度と考えていたが、鎌倉氏の手元から更に、画帳に整理さ
れたものが  出てきたためだった。 竹川さん・野原さんにお願いしてあった寄稿文の取りまとめもほぼ終 
わる
9.11    ミュージアムからカタログ カット割り案が届く。 チラシ案も出来上がる。 それぞれ チェック・調整・・・。 膨大な絵が、分類・整理されることで「なるほど・・・」そうだったのかぃと, 新しい発見があった。まだ まだ、温理さんの絵の世界が解明された訳ではないが、やはりあの理路整然と物事を考えていた 温理さんらしい一枚の絵を構築・展開するための(色彩の置換・姿態の変移と抽象化) がふくよかな絵の世界を生んでいたのだと思った。素人が有らぬ期待をかけるのは慎むべきだろ うが、おそらくもっと時間を
懸ければ、さらに深い理解が可能だろう。

9.21   画集ゲラ刷りが届く。イメージの世界だったものが、それ以上のボリュームで手の中にある・・・
感激しました。            さて、もう一仕事 待っている。 温理さんの絵を活かして残す方法。
まだゴールではない。

10.9
校了

10.15
ポスター・フライヤーなどが届く
IMG_4958 フライヤー裏面

 

 

 

 

 

 


絵の所蔵者に配布 あるいは町の店に貼って貰う。

10.17
松本・神宮寺を尋ねる。この寺には丸木位里・俊夫妻の88枚の襖絵・杉戸がある。温理さんの絵を今後どのようにしていくのが最も良いのかご住職のお考えを伺う。     

11.20
「森温理展」 開幕
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  ・・・・                         

 

 

 

 



素敵な きめ細やかな 温かい展示は、温理さんの絵と生き様を 再現するかのようです。 このような気配りのできるミュージアムの皆さまには、「ありがとう」という言葉しかありません。
前期・後期併せて260点の展示です。
前期展示  11月2日~11月17日
後期展示  11月20日~12月23日
        ☆主な作品(ポスター・リーフレット使用など)を残して全て入れ替えです。
(小山 11月20日前期分の作品引き上げにいきます。}

11/16  信濃毎日新聞に「森温理展」の記事が掲載されました。
IMG_5198【いつも丁寧に内容を拾いだし
文章を起こして下さりありがとう
ございます。】

 

 

 

 

 

 12/23
さくら市ミュージアム森温理展 終了いたしました。
これもひとえに中野館長さま・学芸員大木さま他スタッフの皆様のご尽力なくしては
なしえなかったことと感謝申し上げます。
課外授業で来館していた、さくら市の子どもたちの元気な声が館内に響いていたことなど
が思い出されます。
この成果をこれからどう繋いでゆくかが問われています。
確かなものに寄り添って進めていきたいと思います。

12・27
作品の搬出
ミュージアムの方3名と実相院様に作品を届ける。
作品の今後のことなど忌憚のない話ができた。

・・・・・……………………………………………………………………………3年が経った これ以下 2016.9.23 記

12月27日に実相院さんに絵を搬入した折に交された話について少し書き加えておこう。
1)絵を搬入するにあたり、温理の会から事前に絵の管理・運用などについての要望書をお送りしてあった。

2)作品を寺に寄贈するというのであれば良し。その作品を今まで温理の会がやってきたような管理・運用は出来ない。(場合によれば檀家さんが欲しいと言えば差し上げることもある。)

3)さくら市・佐野市・長野市などでまだ展覧会をやりたいという希望があることを伝えてあったので、そうであれば森家は所有権(このことについては後日談がある)は放棄するので、小山さんがやれるだけのことはやってみればよい。最後に絵の行き場に困るようなことがあれば、森家が受け皿になる・・・ということで合意した。
 
4)絵の散逸の危惧などを考慮すると、もう一度温理の会で一括管理することがよい。

《その後》

2014・5・8~13
佐野市 ギャラリー・ファンタジアさんで
森温理展

5・11  実相院さんを訪ね、昨年末に合意されたことなどの確認。
     1)所有権放棄のための文書(協定書)の作成
      文章の内容については、温理の会に任せるとのこと
     2)実相院での展示会(行われず)
     3)長野への絵の移行(保管場所の確保)
     4)長野での温理展の企画
      ・・・・・・など 

7月1日 竹川寛子・野原未知と決算会と今後の事など・・・
     
11月13日 市立図書館に画集を1冊寄贈(貸出分)
       他に、県立図書館、信濃美術館にも寄贈された。
       図書館の隣にある旧知の川上真足弁護士事務所を訪ね、                 
       協定書を作るにあたって相談する。(画集を差し上げる)     
      
11月21日川上さんを訪ねる。
      温理作品は民法上では温理の会にその所有権があることを 
      確認。 《民法 第2節 取得時効 第162条》
      協定書《案》を作って頂き、森家と改訂を続ける。
      
2015 5月ごろ、さくら市の滝沢さんにさくら市での展示会は可能であ  
      るか打診するが、市民ギャラリーが使えないので断念する。

7月3日北野美術館戸隠館に学芸員を訪ね、カルチュラルホールでの温理展開催が可能か相談。

9月2日北野美術館での開催にOKが出る。
    森温理展 10月15日~11月13日

10月8日 森家と温理作品に関する正式な協定書を取り交わす。

2016 1月26日 北野カルチュラルホールにて、小林学芸員、鎌倉、
     増沢、小山で温理展の打ち合わせ

     2月24日~29日 路地裏の孤高の画家・森温理プレ展         
                長野ナノグラフィカ

     4月21日 大田原市の森家に絵を引き取りに行く。さくら市ミ
     -ジアムによる。

     22日長野市飯綱にある友人のロッジ・ピノキオに半紙大の作  
     品のみの絵を置いて頂く。メクリ・資料は小山が預かる。
     24日鎌倉・江沢・園長・小山で絵の点数などチェック・打ち合わ
     せ

    6月1日 突然だったのですが お世話になった川上弁護士が亡
    くなる。協定書の作成にあたっては、無料で作って下さった。

    7月11日 フライヤー・ポスターの製作打ち合わせ

    9月11日版下出来る  
    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1935年?の日記より(26歳ごろ)

 

1987年前後か、 親友 緒方真太郎宛の手紙より

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