【読書遍歴を交えながら】 生後8ケ月 祖父と
1953 | 0 | 長野県長野市の農家に6人(3男3女)兄姉の末っ子として生まれる。実にかわいかった。 |
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| 父に本を買ってくれとせがむ。伝記の類だったように思うが読み終えた頁のうえにしるしを付ける約束をして幾冊か買ってもらった記憶がある。 |
| 11~13 | 図書館の本を夢中で読むが中2の頃か、突然読書をやめる。【罪と罰】【阿Q正伝】が最後だった。その後、ボーッと4.5年を過ごす。 |
1971 | 17 | 「ゲバラ日記」を読む。まだ何かできることがあるような気がした。決して革命に憧れたわけではない。(こんなカッコイイ人がいたのか・・・)というあたりだろうか。三島由紀夫の闇の艶にも触れた。 |
1972 | 18 ~ | 長野駅前の書店で、「荘子」(岩波文庫)を買う。そのまま、電車に乗り上京、次兄の3畳一間のアパート(三鷹市)に同居するが、流石に狭く間もなく6畳間に引っ越す。 |
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| 新聞配達、仕分人夫、コック見習い、築地魚河岸、などのバイトをしながら三鷹・吉祥寺界隈で暮らす。趣味、都内古本屋周遊。アパートの西隣は太宰治の墓のある寺だった。ボードレールとタルホをもって東北一人旅。 |
1975 | 21 | 一念発起、体を張れるシバイかオドリをしようと思い、公演(ほぼアングラ)を観て回る。「彼女らを起こすなかれ」という舞台を観る。この世のものじゃないナ、と感じ3日後「白桃房」にはいる。そこは、土方巽師のスタジオ兼劇場であった。2カ月に一度の連続公演の渦中であり、連日深夜の稽古であった。「小山君、君は末っ子だってね。ぼくも末っ子ナンだ。なんだって出来るじゃないか。」と言われて、そのシンプルな理屈が、妙にこころをくすぐった。、舞踏はそのころ森羅万象を対象に、重層的振付の極みに到達していた。舞踏技法錬成の絶頂期であった。この頃が土方舞踏メソッドの完成期といわれている。 |
1977 | 23 | 2年におよぶ連続公演も終焉を迎え、ぼくは歌舞伎座の大道具の仕事などするようになる。ワークショップ(舞踏合宿)などには参加した。 |
1978 | 24 | 都会の暮らしに疑問をもって、山で暮らせる仕事など考えるようになる。「焼物に飽きたら、また踊ってよ。」岐阜の山中に焼物の修行に行くと挨拶にいくと、そう言ってくれた。こんな愚弟にも気を遣ってくれる人だった。 可児市久々利大萱の瀧口喜兵爾先生「織部焼」のもとで修業開始。(9月) |
1979 | 25~ | 修行中止(3月)。【瀧口先生には、その後も様々な局面でお世話になっています。】僅か6・7ヶ月だったので、このさい独学でいこうと腹をくくる。信州に戻るが、意外や踊り時代の友人知人が住んでいて驚く。楽しい時期でもあった。ゆるい(しばりのない)人間のカオスでもあった。「ユング自伝」を読みながら「・・・選んだつもりが、選ばされていた・・・」ということがホントウのところかと先祖のことなどかんがえる。 |
1980 | 27~
| 大工見習いの経験から戸隠に小屋を建てる(刻み・建前・土壁などは本職にお願いした〉。薪窯も造る。スキー場パトロール(スキー技能1級)、板金や、植木屋、梱包屋、などをしながらも焼物を作り続ける。また、露天・グループ展などをして、糊口をしのぐ。 |
1982 | 29 | 戸隠神社で式をあげ、結婚する。新婚旅行を兼ねて、トラックで粘土を買いに土岐・名古屋へ行く。 |
1986 | 32 | 長女が生まれたのを機に焼物だけで生計をたてることにする。初個展を長野で行う。(戸隠の土などを使い焼〆や粉引、蕎麦釉のものがおおかった。)そのころの友人の一句 子ができて はじめてつくる 取手付き (コーヒーカップのこと) |
1988 | 34 | 友人N夫婦の家にあった井上有一の書を見て、舞踏的だとおもった。筆で描くとか書くことを強く意識し始めたのがこのころだったのかもしれない。 |
1989 | 35 | 飲み仲間だった79歳の森温理が多くのパステル画を残して亡くなった。これ以降、彼の絵と遺作展などで関わることになる。「ボクハ、デレスケデネェ・・・」がくちぐせだった。画集の出版を最終目標とするがいまだはたせずにいる。(・・・あと一歩。) |
1990 | 36 | 二女生まれる。この頃からか子供のために、宮沢賢治の童話を読むようになる。賢治を読む機会などいくらでもあったはずなのに、ほとんど読んでいなかった。しばらくは賢治本ばかりをよく読んだ。入浴のときには子供たちと「雨ニモマケズ・・・」をアンショーした。 |
1992 | 37 | しぶや黒田陶苑を訪ね、黒田草臣さんに出会う。(織部だけを作ることにする。)登り窯を織部用に作りかえる。翌年、個展。未熟さを痛感するも、黒田さんにはその後も様々な形でお世話になっております。感謝。 |
1994 | 39 | 信州大学病院で頸部にできた脂肪腫(280g)を取る。 |
| ~40 | 文化人類学の岩田慶治さんを知る。新しいアニミズム《岩田先生は森羅万象教/草木虫魚教ともいう》のカミを、フィールドワークから得られた体験知と道元の詩的洞察で再構築する。(なんだそうだったのか・・・)と腑に落ちた。踊りの先輩玉野さんと京都白川沿いのお宅を訪ねた。京都の個展のおりには再訪して、話をうかがった。新刊を出される度に送ってくださった。 |
| 41~59
| いつだって崖っぷちな暮らしは、登り窯をたくのに似てどこかに切羽詰まったものを抱えている。それがうつわにも程良い生気を与えてくれるのだと信じている。 |