水滴三様

とりあえず 水滴三様。
ネタがないのでまだ焼いてない水滴をだしてみた。
生です。
磁器の土にコバルトで絵付け。染付である。
先日の京都での個展の折に、女性の書家の方が小さな水滴を探しておられたので
作ってみた。
そのときは筒向付の型を使った少し大振りの物はあったのだが
希望に応えられなかった。
こういったものは、作っていて愉しい。
径は4cm前後といったところだろうか。
織部染付とでもしておこうか。

 

 

書  記

仕事柄、筆を使うので絵付けのときだけでなく日々筆に触れていようと、様々なテキスト
のやっかいになった。そのひとつに曾祖父の愛用した妙法蓮華経並開結という
文庫本サイズの本(大正12年刊)があって
それを適当に開いてその頁を筆先を意識して書く
ということをいまでもしている。
漢字にはすべてルビが振ってあるし、旧字体で活字がいい。
内容は書いているうちに分かるかなと思ったが・・・残念なことに・・・である。
書は、須田剋太とか棟方志功・永田耕衣が好きだ。
「禅」を感じるからだ。媚びていない生気がある。
(ゼンが何かはともかく・・・)
上は、「自我偈」の最後のあたり。
下はどこか・・・しら。

 


これは、岡本可亭の三体千字文

 これは、昭和初期の謡曲の本。書きながら能の勉強もできる。
鞍馬天狗、弱法師、巻絹、烏帽子折、井筒など

 

 これは、井上有一の顔真卿の臨書(意臨)

大窓の「赤」三点

もう秋が終わろうとしているこの時期に、色々な「赤」が発生する。ホウズキ,ダイモンジソウそして
吊るし柿。9月に撮った山芍薬の実が爆ぜたところの赤とも違う。黄瀬戸のようなダンコウバイの葉、
渋紙手のようになった朴の葉。なるほど日本の焼物のテクスチャーは、草木に由来しているものがある、
意図しないまでも。志野の白はなんだろう・・・。瀬戸黒の黒はなんだろう・・・。赤織部の「赤」は、赤松
の樹肌の色だと思っている。

 

 

 

 

 

                                                                       

 

 

旅人かへらず

云わずと知れた西脇順三郎の第二詩集である。昭和22年刊だけど中々洒落ている。こんなに完成度
の高い詩集もあまりないのではなかろうか。これは、1978年に恒文社から復刻された物。
どこをとってもいい。

        旅人は待てよ 
        このかすかな泉に
        舌を濡らす前に 
        考えよ人生の旅人
        汝もまた岩間からしみ出た
        水霊にすぎない
        ・・・


 あるいは       「岩石の 淋しさ」

 この全く無害ともいえる思考の連鎖が戦中、
詩を発表することのなかった彼の日本研究の成果である。

 

 

 

 

 11/13 追記

これは、昭和8年に出版された第一詩集「Ambarvalia 」あんばるわりあ・・・・の復刻版。

   
  「天気」

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

何だか判らずに痺れてしまっていた。「なんか遠いなー」という距離感が心地よかったのだと
いまは思える。

 

11/18 追記


昭和54年刊の西脇最後となった詩集「人類」。善光寺大門の書店で初々しく置かれていて
肉筆著名入り番号付 1200部限定 4500円 迷わず購入。
右頁の写真は小千谷市の生家の茶室でのもの。黒田陶苑さんで知り合った写真家の平田実さん
がなんと西脇氏と懇意にしており度々同行して写真を撮っていたという。その平田さんがオリジ
ナルプリントを5点ほど下さった。
ただ、この詩集に納められた詩は本人いわく「牛のよだれのようにダラダラと長い・・・」のだ。
まるで老人のひとりごとのように・・・でも大好きだ。理由はない。

 

  「花」

虎と百合との混合とそのくずれのあの春も終り
に近づいたのだ。また足をはねあげてかすみの
豆のトゲのかすれの屋根のおちこみの春のまた
尾張の春の眼のときならぬアーチの蛇の氷のき
らめきとまた農夫の幽霊の跳りの春さめの女の
花の小鳥の竹のきりさめのはららごの首環のあ
どけなき破壊のはなびのくるしみの永遠の単な
る変形の春のその千万年のくるしみにまたはげ
しいわだつみのくだら観音のもつあのトックリ
の色とそのまがりのモナリザの野原に咲くなで
しこのヒョウタンフクベの生のうすみどりのあ
われにもその水の流れに鳴く水鳥のメログラフ
ィアのアルベルトーのジャコメッティの戦車の
ガガンボの栄華の青銅の春雨はこの小さい町の 
上にやわらかに降っている。

 

心地よい詩だ。だが詩の意味解釈は、加藤郁乎氏あたりにお任せしましょう。たぶん、宮沢賢治
のように有益な詩・文学とは随分隔たりがあるのかもしれないが、このシナッとした沢庵の静物画
をジッと見ている人の背から漂う「おかしみと淋しさ」みたいなものを、味わってみることは絶対
無意味ではないのだ。 【発酵詩】なんてカテゴリーがあれば・・・そこに入れたい。

長岡で個展があった折に、友人に信濃川を見渡せる小高い山・・・山本山の頂きに立つ西脇の詩碑の
所に案内してもらった。「小山君は西脇なんて読んでいたの・・・」「・・・ん、まあね。西脇もやっぱり
アニミズムじゃない。」「最近はなに読んでるの・・・」「・・・ん。ヨコタくんは・・・」数年に一度ぐらい
お互いの読書傾向を確認しあうのが〈仁義〉みたいな仲だ。 ・・・巨大な詩碑を一回りして藪椿の咲く
山を下りた。

 

       永劫の根に触れ
       心の鶉の鳴く
       野ばらの乱れ咲く野末
       砧の音する村
       樵路の横ぎる里
       白壁のくづるる町を過ぎ
       路傍の寺に立寄り
       曼陀羅の織物を拝み
       枯れ枝の山のくずれを越え
       水茎の長く映る渡しをわたり
       草の実のさがる藪を通り
       幻影の人は去る
       永劫の旅人は帰らず

 

紋様 日本 アニミズム ・・・と書きだしてみればアニミズムという土台があっての
日本の紋様世界があるのではないか
と思い至る。
このあたりをもう少し考えてみたい。