個展・口上

 

1989/9

ぎゃらりー小川

 知其白守其黒(老子より)

 

1991/4

越前屋画廊

 抉る・捻る・千切る・外す・潰す・張る・擦る・叩く・撫ぜる

 掴む・包む・摺る・断つ・剥ぐ・切り閉じる・動詞の器

 

1992/6

黒田陶苑 1

四季が息をしているところでは

草も木も あるいは岩でさえも

寝息をたてる

豪快な鼾は織部に似ている

 

1994/7

栗の木美術館

 歪んで潰れたようなものがどうも

 気になる カケラも良い“この壺

 をこわせば永劫のかけらとなる“

 と詩人はいったが・・・

 

1994/9

松葉屋

 ずっと昔からじゃが芋、大根に匹敵する形を追いかけていた。ホーレン草

 などの菜っ葉に負けない色を探していた。“随分つまらないものを目指して

 いるんだなあ“と想われるでしょうが本当のことなのです。出荷用でなくて

 農家の自家用のもので、曲がったり虫食いのあの形、あの色、あの味です。

 ちょっと熟れ過ぎの感じ。太陽の味。緑の葉のところどころが赤や茶色に変

 食した無農薬の健全な凸凹。リンゴの木のテッペンに残った最後の一個。

 鳥の取り分だというが、あれがうまい。サビ、小鳥のついばみ跡の残る奴。

 陽変した裏も表もある彩,美味しい形、美味しい色彩は永遠に崩れている。

 管理された上品より、しぶとい下品。そのようなわけで有機農法と、有機

 焼物法は、微妙な一致をみるのです。

  窯に鳥影が映るころ、そろそろ焼けたかなあと、真っ赤な窯のなかから真っ赤な茶碗を出してみる・・・。豊作を夢見て。

1995/5

小田急新宿 工芸サロン

 芽吹きから、紅葉まで様々な色合いをみせる木の葉、草の葉。

 地面にポッカリと顔をみせる赤土の色彩。

 水草の影、川底の虫、思惟の闇。織部を造り続けている理由が、

 そんなところにもあると、この頃感じております。

 

1996/7

上田西武

 道具の美しさは、草木虫魚の美しさに似ている。魚は水のなかで形

 づくられ、茶碗は人の掌のなかで生まれる。この単純な理に添って

 さえも、なんとその多様なことか。

 

1997/4

ギャラリー紺

 小千谷の詩人は、いびつの茶碗を“うるわしいヘンチキリンとよんだ。

 織部は、このイビツが難しいのだという迷路があって悩ましい。雑念ばかり

 の仕事場で・・・。

1998/4

黒田陶苑 5 「向付 百花繚乱」

 織部の型打ちの古作には働き者の樵の掌のような温もりがある。

 手が様々な表情をもつように向付もその変幻を楽しんだのでしょうか。

 古の器に秘められた工夫を探すのも豊かな一刻。“水鳥のゆくもかえるも

 跡たえてされども道はわすれざりけり“と詠まれたように

 

1999/4

黒田陶苑 6 “葉”展 万葉満彩

 「“ハッパ” あまりに身近でありふれたものが存外手強いものだったり

 するので葉型 葉紋 葉色・・・再点検」

 

2000/4

黒田陶苑 7 「小向付を中心に」

 小向付 こんなかわいい織部も捨てたもんじゃない。

 平向付のミニチュアであるそれは、坪庭を好み根付を楽しんだ人

 の掌のなかで愛玩されもしたのだろうか。水屋のすみでカチャカチャと

 出番を待っている小兵。

2000/11

美土里

 タクホドハ カゼガ モテクルオチバカナ

 なんて呟きながら かれこれ20年 織部は焚火では焼けない・・・

 木の葉は陽を受けて歪み 切り株はたくましく歪み

 石ころは素直に歪んでいる 秋の陽のこぼれる庭先でそう想った 

 

 

1998/9

伊勢丹新宿 ファインアートサロン

 古い織部の器を見せてくれる人がいる。箆削りや一見不可解な文様の

 連なりが器を支えるもうひとつの(意味の器)であることに気付くと

 おのずと伝統の心の綾のようなものに思いが至ってしまう。

 

2001/1

ギャラリー壹零参堂 3

 「鎌倉から出土した素朴な漆の器には、織部や志野の絵付けと同じ魂

 が宿っている。時代を隔てるものは何もなく、いまも生き続けている

 のだと思う。それは、風土とも土着ともいえる着心地のいいハンテン

 のようなものだと勝手に考えている・・・」

 

2001/5

黒田陶苑 8 (蓋物を中心に)

 蓋物は何か勿体ぶっている。それは美味しいものを隠しているからだ。

 たとえそれが 梅干しひとつでもその素振りはかわらない・・・

 騙されることもあるのだ・・トリック好きの日本人には欠かせない一品。

 

2002/1

松屋銀座

 “雪の下でペチャンコな草の葉のねむりナズナスズシロ・・・

 織部のヘンチクリンは半睡半覚の勇み足のステップ 落書きの口笛 蛇足の楽しさ“

 

2002/6

黒田陶苑 9 (徳利 鉢展)

 あばらやのロフトの書架の紙の束の裏のその暗がりのせっせと

 泥の徳利をつくる蜂の仕事のひとつは産屋のためにひとつは

 美酒のために・・・

 

2002/11

ギャラリー正観堂 1

 山は日々 そのいろどりをかえる。みどりという色もその内包する

 意味は変化ではないかと想う。豊かなみのりをもたらし 現れては

 消える四季の光彩。

2003/7

ギャラリー紺 3

 うつわの初源は、手のひらで水を掬うところにあったか・・・。そのうつわが百花繚乱の賑いを呈したのが桃山時代で、その白眉が織部。この遊び心を支えていたのは、かたちのうえでは他ならぬ“手のひら”であることに気付くと

絵付けは、風水石火、草木虫魚の素朴なアニミズムの世界だ。

 

2003/1

ギャラリー壹零参堂 4

 不図この皿を置いてみると“ニゴリナキココロノ水二スム月ハ波モクダケテ

 ヒカリトゾナル“と道玄の和歌が想い浮かびました。雑念ばかりの仕事場でつくったものですから畏れおおい思いつきではありましたが・・・心の水に月が住んでいる・・・“心の劇場で踊るんだよ舞踏は・・・”とは土方巽師のことば。では心のなかの器に盛る素材とはどんなものなのか・・・。

 

2003/5

黒田陶苑 10 志野 織部展

 “酒道家・・・?”はいない。道を求めることと理性を失うことは相いれない(?)からか。“酒道ヲイタシテオリマス”なんて言ったら、とたんに酒は酢に化ける。織部や志野の狂おしさは“酔い”と一脈通じているなあ・・・と

李白の飲みっぷりを想って考えた。

 

2003/9

ギャラリー文夢 1

 織部は土(形)火(釉)絵(筆勢)が相絡まってできている。焼物はみんな同じだろう・・・ともいえるが大きく違うところは、即興的な軽妙さにある。

「格に入、格を出て初めて自在を得べし、この自在を軽みという。」(芭蕉)そんなところもあったかとおもいます。

2004/4

黒田陶苑 11

 風は林をめぐり 雪のほうかむりをめくり

がらんどうの窯に舞い込み轆轤を回す

仕草をしていることがあった。

2004/10

アートサロン 光玄 1  織部 小向付 万象展

 静謐にして狂乱  無垢な饒舌  稚拙で巧妙な

織部で  茶請けの小器に  慈雨の光  野草のぬくもりを

宿らせて・・・五十形 五百趣。

2005/1

ギャラリー壹零参堂 5

 ウ゛アキ・バサ・ゴトン   シュリ・シュリ・トン ガリ・カリ・ポン

 シャバ・シャワ・チャポン ピピンッピンピリ ジュオ コオーン

…焼き物に音は刻んでないけれど、これは窯場の音景色です。

 

2005/4

黒田陶苑 12

 ポチャン…ポポタン…雪解けのしずくが 凍てついた地面を掘り続ける

 昼下がり 瀬戸黒の茶碗の手の心のあたるあたりのひと削り…ザクッ

敲いて撫ぜて拭き上げてぽんぽん ツルサラ ザラカリ チョン 雪野に白兎が舞い跳ねる。

 

2005/7

ギャラリー雲母 1

 雅 放胆 枯淡 稚拙 鈍 省略 不整美 無名色 無造差・・・

コレラ魅惑的ナ言葉ノ響キヤいめいじガ 織部ヲツクル営ミノ表層トシテ

アッタ二シテモ 規矩準縄ガ隠レ備ワッテコソノ面白ミガ真相ダロウ…

なんて想いを窯内迷宮に託しております。

 

2006/4

黒田陶苑 13 一菓一輪展

 花を挿し  菓をほうばる  茶を喫し…  五感を無何有の

郷に誘う。 うつわは類推の河を渡る舟の如きものか。

 

2006/10

ギャラリー雲母 2

 草の色 茎のまがり 岩のくずれ 欠けた茶碗 古の土の思ひ

物いわず 落葉をふむ ひよどりの鳴く 山里から

織部の器  七七

2006/11

ギャラリー正観堂 3

 風にカラカラッとさらわれて重なった枯葉にザッザッと

踏み分けて歩くのが良い。

「良い香合は蓋をあけるときにゴワッとするんですョ。」

こんな音にはオマケみたいな愉しみの味がする。

2007/1

ギャラリー壹零参堂 6

 ローソクのあかりのつくった やわらかい ゆれるかげを

たたみのうえに 綿菓子のように掬ってみたりする

2007/3

山形 十字屋

 利休の愛弟子であった古田織部は、師のワビサビの世界に心のおもむくまま

の意匠と造形で躍動する美を取り入れ、軽妙洒脱で多彩な器をもちい、茶の席はもとより酒宴をも愉しく演出しました。その豊かなバリエーションに魅了

されて作りつづける小山織部の登り窯から生まれた逸品の数々をご高覧ください。

2007/5

黒田陶苑 14

 香を焚く 小部屋にうすく満ちた芳香に

 身を染めて 忘我のひとときとしよう

 酒を飲むもよし 茶を喫するもよし

 読書と思索に耽るもよし 燻ゆる烟のピ

 ア二シモに耳そばだてて しばしの至福

 に浸る・・・離騒の器 香炉

 

2007/10

ギャラリー雲母 3

 プエブロインデアンの女性は(土器を作っているうちに、わたしがわたしに

粘土が粘土に触っているという感じになって・・・粘土の精霊の為に土器を

覆うデザインのなかに一か所ポコッと空白の場所をつくってあげる。それが

精霊の出口です・・・土器に感情が憑依するのでポジティブナ情態のときだけ

土に触れる・・・」という。僕の想う織部にも共鳴するのである。

 

2008/4

黒田陶苑 15

雪にうもれた小屋のなかで 小さな窯に火を点し

カミに捧げた酒を飲み干し 塩をなめる

冷気はシュルシュルと蛇のように体にまとわりつき

草加せんべいのように窯の熱で体をあぶり 夜には大きな

段ボール箱に背をいれた亀の如きありさまを笑う

炎のエロチシズムは器に香気を付着させ

織部のナルシシズムに雪間の草の温みを送る

 

2008/7

ギャラリー ファンタジア 2

 織部という焼物は、本来相反するかたちを内包していて

ややこしい器だ。“ひょうげもの”といわれ、その崩れた品

位を支えている技はアドリブによって塗り込められ、筆先は

雨粒やつる草、釣り人や鷺をピアニストの指先のように軽や

かに描く。

 

2008/10

ぎゃらりー玄 気仙沼

 気仙沼にはかつて2度訪れたことがある。一度目はハタチの頃の一人旅で

次は10数年前家族旅行で友人に会いに・・・。今度は焼物を抱えて行けるので懐かしさで胸が膨らむ。織部は今風にいへば癒し系の焼き物で肩肘張った

ものではないからそのあたりを見て使っていただけるものと思っています。

 

2008/11

ギャラリー正観堂 4

 薄汚れた制作ノートの余白のところどころに、気に入った人の句や言葉の

 走り書きがある。

 菜の花や此の身響きの如く行く 朝ごとに秋深くなる木草かな・・・

 花を見ていると花になってしまう・・・

 いつか俳句のような織部がつくれるといいと想う

2009/3

黒田陶苑 16

 僕が大萱の瀧口先生の門を敲いて初めての冬 酷いアカギレになった

 手や芯まで冷え切った体を湯船に沈めて温めたことなど思い出す 冷

 たい陶土を軍手をはめて練っていて叱られたこともあった

 「春一番」が吹いた日の朝 雨戸を開けると暖かい風が全身をふわりッ

 と包んで舞い込んだときのことも覚えている まもなく空色のすみれが

 地面を彩り始めた如月の陶郷は体の中に蒔かれた四季の記憶の美しい

 小片である

 

2009/5

ギャラリー雲母 4

 人と人との出会いのように、僕と焼物との出会いもやはりあった。30数年

前、旅芸人であった頃、九州別府にて“チベット蒙古参考館”という古めかしい館で、老主人が彼の地で戦前に収集した仏像、書、工芸品の類の中に、キラリッと光る掌ぐらいの青磁の陶片があった。それは、蒼穹に発光する幾筋もの

流星痕を映し込んだ、それは美しい物でした。相前後して愛読した詩集“旅人かへらず”の一節<土から土へもどる この壺をこわせば 永劫のかけらとなる>という諧謔も、いまこうして焼物を作り続ける動機を支えている。“かけら”から想起するのはその全体ではなくて、用から解き放たれた純粋陶器とでも呼べる無為の美しさなのだと思う。

 

2009/9

長野 東急 5

<織部ひとくちメモ>グラフィックデザイナーの粟津潔の著作「造形思考ノート」のなかに日本の家紋についての考察がのべられた章がある。3万種に及ぶ

家紋の作図が“九分の丸”と呼ばれる作図法からなっていることに注目した

ものです。織部の平向付もすこぶる種類が多く300種ほどだろうか。それらのデザインもその作図法に倣っていたのでしょう。“原理があって多くのバリエーションを生む”という織部の一面です。

 

2009/11

ギャラリーあやめ 3

 元来、出不精な僕は、静岡という地にも、いまだ行ったことがない。魚が

旨いだろなとか、芳しいお茶が飲めるだろうなとか想像するばかり・・・

ものずくりの嬉しいところは、そんな僕に代わって器たちが魚・茶・酒を盛られ注がれて、彼の地のひとに使って頂けることだ。織部の器を多くの人に観ていただき、愉しく使って頂ければ幸いです。

 

 

2010/3

黒田陶苑 17

 いつ頃作られたのか、渋谷の街の裏打ちのような場所に昔のままの名曲喫茶

ライオンがある 大概が買ったばかりの本を読みに立ち寄るのであるからッ名曲に聴き入るといったことはない。反名曲ともいえる出入り口のドアの蝶番のギギッとか椅子や床の軋む音あるいはコーヒーカップのカチャカチャという、いわゆる雑音の類がかえって心地よく耳を打つ。

この音が無性に懐かしくて足を運ぶのだ。焼物の愉しみにも予定調和のような形や絵付けではなくて雑音のような歪み、目跡や窯傷、蛇足のような線の一人

遊びに心が動くという愉しみ方がある。  ややこしい。

2010/6

ギャラリー正観堂 5

 西脇順三郎の旅人かへらず 舞踏 織部 これらがひとつのこととして

僕のなかにある いずれとの出会いも不思議な符牒 曲がり歪みへの偏愛

とでもいったものに貫かれている 茎のまがり岩のくずれ土のまどろみが

詩情を誘うように 明るい闇にヌッと差し出された腕っ節のように たわ

わむ器のように

2011/3

黒田陶苑 18

 むかしから 障子に鳥影 射す  という予期しない訪問者の予兆

を表すことわざがある  何か良い知らせが届くような気がして

   好きなイメージだ  窯出しのときの 神ガカリ的なものへのささやかな期待が その一瞬の影の飛来 に似ている

 

2012/3

黒田陶苑 19

 間もなく、昨年の3/11から一年がたつ 日本人の全てが、多くの犠牲者の

御霊に黙祷し、ひとりひとりがその胸に自らの歩む道がこれでよいのかと問いかけてきた一年だ  社会が作り手に望むものは多様だが深く根を下そう・・・

ラジオから古老の職人の静かな声が流れた「下手ハ下手ナリデイイ、嘘ヲツカズニ正直ナ仕事ヲスレバイイノデス。」・・・年季のはいった下手、空を地とする世界もあるべきなり・・・

2012/6

松本 井上百貨店 5

 土と炎と時代とその想い・・・織部はたのしいやきものでありました。

ヒョウゲモノと呼ばれ、さまざまな工芸の枠をこえてかたちや絵付けをかすめ採って焼き物にとりいれ、祝祭的で快楽的、音楽的で歌舞いた道具は時をこえて愛され、ときに手塩皿に、ときに燭台に、ときに盃に、ときに花入となり

作られ使われてまいりました。“やっぱりオリベが好きだな・・・”と想うこの頃です。ご高覧いただければ幸いです。

 2012/9

 ギャラリー正観堂 6

「人は声や音なしでは暮らせないように 人は沈黙なしでも生きることはできない」(瀧口修造) 一度だけ西落合のお宅を訪ねたことがある ガウンを着て奥様とふたり玄関先まで本が積まれた狭い少し暗い場所でまるで時間がとまったかのように自らの近況を語られた ことばが内側からボーッと光を発しているなかに立ち尽くしている錯覚に陥っていた 器を手にするときの法悦も案外こんなことなのかもしれない