「おしらせ」カテゴリーアーカイブ

4/7~4/11しぶや黒田陶苑さんで個展・・・終了

今年は雪が少なくて春の来るのが一ヶ月ほど早い感じがします。
黒田さんでの初めての個展から30年になりますから、年月の流れに驚いています。今回は漠然と桃山の「写し」を作ってみたいと思っていました。
「写し」といっても書道では、形臨意琳背臨さらには倣書といって臨書といっても様々な段階があります。焼き物にもそのような模倣の歴史がありました。上手くなればなるほどそれが「まがい物」として闇市場に流れてゆく運命が待ち構えていて、それも必ずしも否定的にとられない大らかな社会もあったのだと思います。作り手にとっては腕自慢にもなったのです。
それに先立ち、産業としての陶器は中国からの瓶など実用の器を写して作ることもありました。韓国からの職人や焼成技術の移入、ベトナムやタイなど東南アジアからの器や人や築窯技術の移入もあり、まるでモザイクのようになっているのが文化と称されるものの実態だと思います。そのような状況が背景にあって織部を見るとまた見え方が違うのではないでしょうか。
 個展の準備を始めた頃に思い描いた事はそれほど簡単にはいかなくて、継続的に製作途上の想いの中で熟成させて行けばいいと考えています。

今回はいつになく新旧の作品を織り交ぜた展示になりました。
・・・・



とりあえず 個展のお知らせでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

展示会無事に終わりました。いつになく不安を抱えたスタートでしたがお店のスタッフのかたやお客様に支えられて充実した展覧会となりました。お目にかかれた皆様誠に有り難うございました。また、気に掛けてくださった皆様方誠にありがとうございました。

京都ギャラリー正観堂さんで  11/12~21個展



一昨年は、コロナ禍での開催でしたので在廊は、控えましたが、
(12,13,19、20、21日)は在廊いたします。

京都での個展は、いつも少しドキドキする。市中徘徊というか・・・何かに出会う楽しみがある。ただひたすら歩くだけでも、何かしら発見がある。
今度は、何があるのかとそわそわしている。

 織部十二面体水指

 

 

 

 

黄瀬戸茶碗

POND GALLERYさんにて10/30~11/4個展

POND  GALLERY(銀座)さんでは初めての個展です。
1月頃だったか・・・向付だけの個展をやってみないか・・・
ということでした。その後4月に渋谷の黒田陶苑さんでの個展でお目にかかって、5月に家に来られた。黒田さんの個展の直後に、「美の壺」の出演依頼があって「短詩的工芸」とか「向付のバリエーション」について話してくれないか・・・ということだった。
端的に言えば「原理があって、多くのバリエーションを生む」ということだ。「定型」「形」を持つことが、豊かな表現を生み続けることが出来る・・・ということを云いたかっただけだ。
型がなければ駄目だということではない。生まれ持った才能が、易々と表現の領域を超えてゆくことを誰もが目撃している。
僕が、織部から感じ知り得たのは、おそらく文字以前に依拠する変わらぬ表象文化の色濃さだったのだと思う。

織部の向付というのは、道具としての器の領域を超えて、漆器や染織などと同じように焼き物が短詩系文学を纏い始めたのがここからだったというエポック。

POND GALLERYさんでの型打ちに特化した展示は、嬉しい・・・どこまで伝わるか待ちたい

登り窯とガス窯の違いも伝われば・・・と思う。
最終日のみ一般の方が見られます。あとは飲食業の方々のみ入店可です。

8/5「美の壺」にちょっとだけ顔を出します

 

 

 

 

美の壺
File 563 桃山の革命 織部焼

【放送日】
◆NHK BSプレミアム・BS4K

本放送 :2022年8月5日(金)午後7:30〜7:59[BSプレミアム・BS4K]

再放送 :2022年8月13日(土)午前6:45〜7:14[BSプレミアム・BS4K]
再々放送:2022年8月18日(木)午後11:00〜11:29[BS4K]
再々放送:2022年8月19日(金)午後0:30〜0:59[BSプレミアム]

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本国内で土型を使った器作りがいつから始まったのか、まだ調べてはいない。織部焼の向付の特徴ともいえるその技法を使った平向付にはおそらく300種ほど(僕が採集した形は230種類弱でいまだに新しい形に出会うことがある)の意匠が展開されているのではないかと考えている。
今回は、平向付について取材された。560個の大小の土型の内250点余が平向付で、他に小向付、水指、型打ちの皿 、筒向付、花入れなどがある。型を使うことが今では量産のための手法と思われるがそれは、形のバリエーションを生むための手段であることを理解して欲しい。
また、「形」は言葉を介さない意味伝達の手段であり、伝統的イメージの宝庫でもあることに重要な意味がある。

焼物を始めた頃に、不思議に思ったのが織部の向付の種類の豊富さだった。その答えを導くカギとなったのが粟津潔さん(造形思考ノート)が家紋について書き下ろした文章の中の「原理があって、多くのバリエーションを生む」という文章だった。翻って考えてみれば、織部の変化に富んだ意匠を繰り出したのは、他ならぬ京都の意匠家たちであれば合点がゆくというものだ。とはいってもその原理(家紋を描く方法)とやらに則て実際に土型を作り始めたのは、気付いてから10年程経っていたかもしれない。
「原理」思いついたデザインをその原理(製図法)の篩にかけることで、無限の形に統一感を生む。
これは、沓茶碗にも当てはまるのではないかと考えている。
更には和歌の定型詩としての在り方にも通底していると思う。

利休が長次郎を指導しながら作った茶碗は、茶室を構築する神経と同じような計算(人間工学的な)しつくした美しさを求めたのではないかと考える。ことに沓茶碗は、この内的必然性を抜きに成立しない、踊りの振り付けのようなものを僕は感じている。
次に大切なのは、「型」と「即興」の妙とでも云えるところだ・・・。この二つが未分の所にポジションを置くことが出来ればいいなとおもっている。 

・・・などと理屈を捏ねても 器の良さを決めるのはそんなところには無いのかもしれない。計算し尽くした気まぐれな何かと・・・思って間違いない。