「本記」カテゴリーアーカイブ

歪みについて・・・

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「多少とも歪んでいないものは感銘を与えないように見える。・・・その結果
規則外れ、即ち、思いがけないこと、虚を突くこと、びっくりさせることが、
美の、本質的な一要素であり、また特徴である、
ということになる。 

【ボードレール】   ( 火箭・赤裸の心) から

 

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大成若缼、其用不弊、大盈若沖、其用不窮、
大直若屈、大功若拙、大辯若訥、躁勝寒、
静勝熱、清静為天下正

・・・最もまっすぐなものはまがっているようにみえ、
最も技量のある人は不器用にみえ、・・・

【老子 道徳経 第四十五章】



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・・・でも円の過剰はむしろ 
人間の保全に害をなす
ある陶器の名工はその遺産の
圧迫から自由を求めていびつ の茶碗を
つくりひそかにたのしむのだ
すぐれた芸術の秘密はイロニイという
諧謔でありそれがないと芸術はない
なんとうるわしいヘンチキリンさだ 

 

【西脇順三郎  詩集・人類】

 

tuiki   2/8

大体焼物の知識が皆無なところに
いきなり歪んだ織部にであったのだから、縁があったのか
それとも不運だったのか・・・いまさら考えてもどうなるものでもない。
生来、考えているのが好きなタイプの人間ではあるのだが
一度だって結論めいたものに辿りついたことがない・・・
この【歪む】というのも
その理由は無限にあるのであって限定することほど
野暮なことはない。

正直なところ
これほど普遍的な有様はないだろうし・・・
そこに諧調も生まれるのだ
と思っている。
棟方志功の人のフォルムも
土方巽の踊る姿も
織部の茶碗も同じ位相のなかにあるといったら言い過ぎだろうか。

tuiki  4/12

【柳 宗悦】

模様とは、なくてはならぬものの強調である。ここでグロテスクの美が発生する。
模様は何らかの意味でグロテスクである。グロテスクとは、単に奇怪というような
ものではない。本質的なものの強調である。最も美しいものはどこかにグロテスク
の要素を帯びる。そうしてその表現の全ては模様なるもので示されてくる。ここに
美と工芸性との深い結縁が見える。                 《工芸文化》より

 

つづく

 

旅人かへらず

云わずと知れた西脇順三郎の第二詩集である。昭和22年刊だけど中々洒落ている。こんなに完成度
の高い詩集もあまりないのではなかろうか。これは、1978年に恒文社から復刻された物。
どこをとってもいい。

        旅人は待てよ 
        このかすかな泉に
        舌を濡らす前に 
        考えよ人生の旅人
        汝もまた岩間からしみ出た
        水霊にすぎない
        ・・・


 あるいは       「岩石の 淋しさ」

 この全く無害ともいえる思考の連鎖が戦中、
詩を発表することのなかった彼の日本研究の成果である。

 

 

 

 

 11/13 追記

これは、昭和8年に出版された第一詩集「Ambarvalia 」あんばるわりあ・・・・の復刻版。

   
  「天気」

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

何だか判らずに痺れてしまっていた。「なんか遠いなー」という距離感が心地よかったのだと
いまは思える。

 

11/18 追記


昭和54年刊の西脇最後となった詩集「人類」。善光寺大門の書店で初々しく置かれていて
肉筆著名入り番号付 1200部限定 4500円 迷わず購入。
右頁の写真は小千谷市の生家の茶室でのもの。黒田陶苑さんで知り合った写真家の平田実さん
がなんと西脇氏と懇意にしており度々同行して写真を撮っていたという。その平田さんがオリジ
ナルプリントを5点ほど下さった。
ただ、この詩集に納められた詩は本人いわく「牛のよだれのようにダラダラと長い・・・」のだ。
まるで老人のひとりごとのように・・・でも大好きだ。理由はない。

 

  「花」

虎と百合との混合とそのくずれのあの春も終り
に近づいたのだ。また足をはねあげてかすみの
豆のトゲのかすれの屋根のおちこみの春のまた
尾張の春の眼のときならぬアーチの蛇の氷のき
らめきとまた農夫の幽霊の跳りの春さめの女の
花の小鳥の竹のきりさめのはららごの首環のあ
どけなき破壊のはなびのくるしみの永遠の単な
る変形の春のその千万年のくるしみにまたはげ
しいわだつみのくだら観音のもつあのトックリ
の色とそのまがりのモナリザの野原に咲くなで
しこのヒョウタンフクベの生のうすみどりのあ
われにもその水の流れに鳴く水鳥のメログラフ
ィアのアルベルトーのジャコメッティの戦車の
ガガンボの栄華の青銅の春雨はこの小さい町の 
上にやわらかに降っている。

 

心地よい詩だ。だが詩の意味解釈は、加藤郁乎氏あたりにお任せしましょう。たぶん、宮沢賢治
のように有益な詩・文学とは随分隔たりがあるのかもしれないが、このシナッとした沢庵の静物画
をジッと見ている人の背から漂う「おかしみと淋しさ」みたいなものを、味わってみることは絶対
無意味ではないのだ。 【発酵詩】なんてカテゴリーがあれば・・・そこに入れたい。

長岡で個展があった折に、友人に信濃川を見渡せる小高い山・・・山本山の頂きに立つ西脇の詩碑の
所に案内してもらった。「小山君は西脇なんて読んでいたの・・・」「・・・ん、まあね。西脇もやっぱり
アニミズムじゃない。」「最近はなに読んでるの・・・」「・・・ん。ヨコタくんは・・・」数年に一度ぐらい
お互いの読書傾向を確認しあうのが〈仁義〉みたいな仲だ。 ・・・巨大な詩碑を一回りして藪椿の咲く
山を下りた。

 

       永劫の根に触れ
       心の鶉の鳴く
       野ばらの乱れ咲く野末
       砧の音する村
       樵路の横ぎる里
       白壁のくづるる町を過ぎ
       路傍の寺に立寄り
       曼陀羅の織物を拝み
       枯れ枝の山のくずれを越え
       水茎の長く映る渡しをわたり
       草の実のさがる藪を通り
       幻影の人は去る
       永劫の旅人は帰らず

 

紋様 日本 アニミズム ・・・と書きだしてみればアニミズムという土台があっての
日本の紋様世界があるのではないか
と思い至る。
このあたりをもう少し考えてみたい。

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「木が人になり 人が木になる 」  岩田慶治

「アニミズムと今日」と副題が付く。(・・・こことそこ、あのときとこのときが一体になる。そ
んな不思議の場所、同時空間を、森羅万象にカミを体験する、アニミズムの立場から
探究する・・・) 。宗教以前、人は何を想い、感じ、語り、畏れ・・・暮らしていたのか。
その答えを求めて幾度にも亘る東南アジアの少数民族地帯でのフィールドワークを通
じて、古くて新しいアニミズムの(カミ)を再構築した。1970年代から先見的に語
られた今日への警鐘。・・・全く話は逸れてしまうが、渋沢龍彦の著作「幻想の彼方へ」
のなかにポール・デルボーの描く〈樹木の女〉と題する絵があることを思い出した。西
洋風な夢の庭で4人の腰のあたりまで樹木化した女性が思い思いの仕草で立っている
絵画だ。意図するところはそれぞれ違うのであろうがデルボーの描く世界にも既視感
とも不思議の場所ともいえるものが備わっている。

 この本は岩田慶治著作集の月報に連載されたものをまとめたもので、お住まいのある
哲学の道界隈の散策での「一日一微小発見」の結果報告ともいえるものだが、絵の達
者な著者のイラストが効果的に使われ、イメージの方程式を差し出されているようだ。
それが足下、眼前の出来事であるからおもしろいのである。   11/2  追記

 

                       


《変な話だけれど、どうしても治らない皮膚病の部分を見ていると、そこに自分のなかに
食い込んだ風景を見る思いがする。外部の雲の模様が内部のカサブタになってしまっ
たのだ。その風景がかゆいのだ。》   

《かれらイパン族は朝ごとにモミを精米して食べる。そのとき、立ち杵、立ち臼を使うの
だがかれらの臼には手の込んだ仕掛けがあって、米を搗くたびに心地よい音がひびく。
臼は台所道具であると同時に楽器だったのである。朝ごとにひびく音は村人を喜ばせ
るとともに、屋根裏の大籠のなかに暮らしている稲魂の家族をも喜ばせたのである。》 
イパン族というのは、一般に首狩りをしていた野蛮な人たちとされているが、音にたい
する感受性のとても強い民族で独特な音文化を形成していた。
・・・人間の魂と稲の魂が音の介添えによって循環する・・・

岩田先生の語る言葉は、その豊かな世界を描くためにイメージの飛躍を伴って詩的で
あるがその因って立つところは極めて客観的な現実である。そこが、僕には土方先生
の舞踏性とか舞踏的といった世界が成立しているところに思えるのである。・・・ 
 11/17   追記

 

 

 2013/2/22

2/17 岩田先生が亡くなられた。 91歳。お会いしたのが僕が40歳ほどだったからあれから
20年近い
年月が流れていたとは俄かに信じがたい。先生はいまどこにいるのだろう・・・。
自ら描かれた絵のなかに入って行かれたのだろうか。


                目を閉じて聞けばやさしき春の風
                       くすの若葉をふきわたりゆく

               春に逢う己がこころのひそけさや
                        紅梅の花いまだふふめり

               ひとりきて林のなかに憩ふとき
                        ひかりはゆれぬ手帳のうへに
                                 (バリオ高原にて)

               疏水の流れを走っていく落葉
               黄色の時が急ぎ足で遠ざかり
               褐色の時が深みに沈もうとし
             その奥に無色の時がひろがっていく
             いつも「同時」をめぐって考えながらー。

     ・・・賀状に書かれた言葉や知らせが先生の思想そのものになっている・・・

    いつも若輩の僕などにも丁寧な言葉つかいで、みずからの今の関心事・日々の事・
             
これからまとめあげたいことなどを教えてくださる・・・
                自ら(森羅万象)との対話は終わらないのだろう 

                              
                      ご冥福をお祈り申しあげます。

                                            
        

                          合掌

 

 

 

家紋の話

京都三条の古書店で買った。以前から読もうと思っていたので旅先ではあったが手に入れた。
紋章上絵師にして推理作家の著者が、実作者の側からどんなふうに家紋を語るのか楽しみだが
まだ読んでいない。必要な時に必要なページをめくる本なのかもしれないが、暫くは枕元に老
眼鏡とセットで置いておこう。

 

//[10/21追記]//
読み始めたらいっきに読んでしまった。
たとえばこんなところ、「丸とは円の直径の九分の一よりやや太めというあいまいな表記をしましたが、
きちんと限定しなかったところが職人の知恵だと思います。限定しなければ融通がききます。たとえば
一の字ですとか十の字。 あるいは釘抜や石といった、ごく簡潔な紋のときには、丸を太めに描いた方
が全体のバランスがいい。反対に中が複雑なかたちの紋のときには細めに作図するほうが美しく見える
のです。」104㌻
このように実作者ならではの職人の(知恵)の類や、とかく家紋ということで系譜を辿ることや文様の
意味や類型化に偏りがちな著作をしり目に、生きた家紋史を開陳してくれている。家紋にもまた織部焼
が形成されてゆくのと同じ日本的気質が垣間見える・・・部分への偏愛のようなところがある。
「そのてがあったか・・・」「これじゃあ、どうだい・・・」「それもありですか・・・」  

深い意味で、オタク文化かもしれない。

 

 この本は、いつだったか多々納さんという方と高円寺にうなぎのモツ焼きを食べに行った帰りに寄った
古本屋で買った。もともと僕の父が、持ってはいたのだが中々譲って呉れなかったのでこれ幸いと手に
いれた。紋章学というぐらいだから、紋のデザインのおもしろさよりも成り立ちや系譜あるいは地域分
布などについての記述に重きが置かれている。これで普及版だから本編はまた大変なものでしょう。
泡坂氏は、上絵師職人を見下げた記述をしている個所を、「家紋の面白さがわかっていません ね・・・」と
江戸っ子らしくサラリとかわしている(意訳)。しかし、「余は最愛の女と糟糠の妻とを喪い、坐に人生の悲哀と世路の艱難とを体験し、加うるに貧弱なる生活は、物価の暴騰によりて深刻に脅威せられたりき」と自序に
書かれている下りは、学者の仕事ではあるがなにかその切実さが身近に感じられてちょっと好きだ。
   ただ家紋などは何かと目にも触れるものでもあるし、曰く因縁を少し知っておくことは無駄にはなりま
せんよ。  11/22  追記