「思記」カテゴリーアーカイブ

旅人かへらず

云わずと知れた西脇順三郎の第二詩集である。昭和22年刊だけど中々洒落ている。こんなに完成度
の高い詩集もあまりないのではなかろうか。これは、1978年に恒文社から復刻された物。
どこをとってもいい。

        旅人は待てよ 
        このかすかな泉に
        舌を濡らす前に 
        考えよ人生の旅人
        汝もまた岩間からしみ出た
        水霊にすぎない
        ・・・


 あるいは       「岩石の 淋しさ」

 この全く無害ともいえる思考の連鎖が戦中、
詩を発表することのなかった彼の日本研究の成果である。

 

 

 

 

 11/13 追記

これは、昭和8年に出版された第一詩集「Ambarvalia 」あんばるわりあ・・・・の復刻版。

   
  「天気」

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

何だか判らずに痺れてしまっていた。「なんか遠いなー」という距離感が心地よかったのだと
いまは思える。

 

11/18 追記


昭和54年刊の西脇最後となった詩集「人類」。善光寺大門の書店で初々しく置かれていて
肉筆著名入り番号付 1200部限定 4500円 迷わず購入。
右頁の写真は小千谷市の生家の茶室でのもの。黒田陶苑さんで知り合った写真家の平田実さん
がなんと西脇氏と懇意にしており度々同行して写真を撮っていたという。その平田さんがオリジ
ナルプリントを5点ほど下さった。
ただ、この詩集に納められた詩は本人いわく「牛のよだれのようにダラダラと長い・・・」のだ。
まるで老人のひとりごとのように・・・でも大好きだ。理由はない。

 

  「花」

虎と百合との混合とそのくずれのあの春も終り
に近づいたのだ。また足をはねあげてかすみの
豆のトゲのかすれの屋根のおちこみの春のまた
尾張の春の眼のときならぬアーチの蛇の氷のき
らめきとまた農夫の幽霊の跳りの春さめの女の
花の小鳥の竹のきりさめのはららごの首環のあ
どけなき破壊のはなびのくるしみの永遠の単な
る変形の春のその千万年のくるしみにまたはげ
しいわだつみのくだら観音のもつあのトックリ
の色とそのまがりのモナリザの野原に咲くなで
しこのヒョウタンフクベの生のうすみどりのあ
われにもその水の流れに鳴く水鳥のメログラフ
ィアのアルベルトーのジャコメッティの戦車の
ガガンボの栄華の青銅の春雨はこの小さい町の 
上にやわらかに降っている。

 

心地よい詩だ。だが詩の意味解釈は、加藤郁乎氏あたりにお任せしましょう。たぶん、宮沢賢治
のように有益な詩・文学とは随分隔たりがあるのかもしれないが、このシナッとした沢庵の静物画
をジッと見ている人の背から漂う「おかしみと淋しさ」みたいなものを、味わってみることは絶対
無意味ではないのだ。 【発酵詩】なんてカテゴリーがあれば・・・そこに入れたい。

長岡で個展があった折に、友人に信濃川を見渡せる小高い山・・・山本山の頂きに立つ西脇の詩碑の
所に案内してもらった。「小山君は西脇なんて読んでいたの・・・」「・・・ん、まあね。西脇もやっぱり
アニミズムじゃない。」「最近はなに読んでるの・・・」「・・・ん。ヨコタくんは・・・」数年に一度ぐらい
お互いの読書傾向を確認しあうのが〈仁義〉みたいな仲だ。 ・・・巨大な詩碑を一回りして藪椿の咲く
山を下りた。

 

       永劫の根に触れ
       心の鶉の鳴く
       野ばらの乱れ咲く野末
       砧の音する村
       樵路の横ぎる里
       白壁のくづるる町を過ぎ
       路傍の寺に立寄り
       曼陀羅の織物を拝み
       枯れ枝の山のくずれを越え
       水茎の長く映る渡しをわたり
       草の実のさがる藪を通り
       幻影の人は去る
       永劫の旅人は帰らず

 

紋様 日本 アニミズム ・・・と書きだしてみればアニミズムという土台があっての
日本の紋様世界があるのではないか
と思い至る。
このあたりをもう少し考えてみたい。

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「木が人になり 人が木になる 」  岩田慶治

「アニミズムと今日」と副題が付く。(・・・こことそこ、あのときとこのときが一体になる。そ
んな不思議の場所、同時空間を、森羅万象にカミを体験する、アニミズムの立場から
探究する・・・) 。宗教以前、人は何を想い、感じ、語り、畏れ・・・暮らしていたのか。
その答えを求めて幾度にも亘る東南アジアの少数民族地帯でのフィールドワークを通
じて、古くて新しいアニミズムの(カミ)を再構築した。1970年代から先見的に語
られた今日への警鐘。・・・全く話は逸れてしまうが、渋沢龍彦の著作「幻想の彼方へ」
のなかにポール・デルボーの描く〈樹木の女〉と題する絵があることを思い出した。西
洋風な夢の庭で4人の腰のあたりまで樹木化した女性が思い思いの仕草で立っている
絵画だ。意図するところはそれぞれ違うのであろうがデルボーの描く世界にも既視感
とも不思議の場所ともいえるものが備わっている。

 この本は岩田慶治著作集の月報に連載されたものをまとめたもので、お住まいのある
哲学の道界隈の散策での「一日一微小発見」の結果報告ともいえるものだが、絵の達
者な著者のイラストが効果的に使われ、イメージの方程式を差し出されているようだ。
それが足下、眼前の出来事であるからおもしろいのである。   11/2  追記

 

                       


《変な話だけれど、どうしても治らない皮膚病の部分を見ていると、そこに自分のなかに
食い込んだ風景を見る思いがする。外部の雲の模様が内部のカサブタになってしまっ
たのだ。その風景がかゆいのだ。》   

《かれらイパン族は朝ごとにモミを精米して食べる。そのとき、立ち杵、立ち臼を使うの
だがかれらの臼には手の込んだ仕掛けがあって、米を搗くたびに心地よい音がひびく。
臼は台所道具であると同時に楽器だったのである。朝ごとにひびく音は村人を喜ばせ
るとともに、屋根裏の大籠のなかに暮らしている稲魂の家族をも喜ばせたのである。》 
イパン族というのは、一般に首狩りをしていた野蛮な人たちとされているが、音にたい
する感受性のとても強い民族で独特な音文化を形成していた。
・・・人間の魂と稲の魂が音の介添えによって循環する・・・

岩田先生の語る言葉は、その豊かな世界を描くためにイメージの飛躍を伴って詩的で
あるがその因って立つところは極めて客観的な現実である。そこが、僕には土方先生
の舞踏性とか舞踏的といった世界が成立しているところに思えるのである。・・・ 
 11/17   追記

 

 

 2013/2/22

2/17 岩田先生が亡くなられた。 91歳。お会いしたのが僕が40歳ほどだったからあれから
20年近い
年月が流れていたとは俄かに信じがたい。先生はいまどこにいるのだろう・・・。
自ら描かれた絵のなかに入って行かれたのだろうか。


                目を閉じて聞けばやさしき春の風
                       くすの若葉をふきわたりゆく

               春に逢う己がこころのひそけさや
                        紅梅の花いまだふふめり

               ひとりきて林のなかに憩ふとき
                        ひかりはゆれぬ手帳のうへに
                                 (バリオ高原にて)

               疏水の流れを走っていく落葉
               黄色の時が急ぎ足で遠ざかり
               褐色の時が深みに沈もうとし
             その奥に無色の時がひろがっていく
             いつも「同時」をめぐって考えながらー。

     ・・・賀状に書かれた言葉や知らせが先生の思想そのものになっている・・・

    いつも若輩の僕などにも丁寧な言葉つかいで、みずからの今の関心事・日々の事・
             
これからまとめあげたいことなどを教えてくださる・・・
                自ら(森羅万象)との対話は終わらないのだろう 

                              
                      ご冥福をお祈り申しあげます。

                                            
        

                          合掌

 

 

 

・・・冠雪・・・

北アルプスが冠雪した・・・といっても「初」なのかは知らない. 随分久しぶりにアルプスを見た
気がする。肝心の戸隠山も実は初冠雪したところがあったのだが、写真に取り損ねた。戸隠連峰の
最高峰、高妻山が薄っすらゴマ塩頭みたいになったのだ。しかし、絵にならない。この写真を撮った
ときの気分「おっ いいじゃないか」だけでアップしてみた。飯島耕一の詩集に「ゴヤのファースト
ネームは」というのがあった。詩を書けなくなった詩人が、書けないことを詩にした詩集だ。
この手もときにはいいでしょう。

ほ   お

IMG_2026朴の葉。大きな見栄えのする中々、役に立つ且つ素直で美しい、ちょっと何かを盛り付けてみたくなる
葉である・・・らしい。うちの周りでは、他にワサビの葉がそれにちかい。
先日、この葉に包まれてイナダの刺身のお裾分けがあった。
風流であった。

 

織部でやると、こんな風な皿になる。よくあるパターンのものではあるがやはり盛り映えもよく
何にでも使える。おにぎり、御刺身、果物、茶菓子・・・
使いやすくて飽きの来ないものが、「普通でフツウなものが・・・」
いいですね。旧知の料理人のかたが
「器なんて安いもんです。一万円の皿も一年毎日使って楽しめれば一日27円ですよ。」
「ほぉー」
[ちょっと話が飛躍しましたか・・・。]