「思記」カテゴリーアーカイブ

ヴォルス

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1977年にフジテレビギャラリーから発行されたカレンダー  「ヴォルス箴言集」 瀧口修造訳 より

☆  悲しい詩
   犬には自分の首環が見えない。

☆  個人的な愛の向う側には
   名の無い愛がある。
   道(タオ)
   宇宙
   聖霊
   ・・・・・・
   どのような瞬間にも
   どのようなものにも
   永遠はある。

☆  仕事をするときは猫をまねるべし
   かれを取り囲む家具のように不動のままでいること
   それが目的物を仕留めるのだ。

☆  見ること、それは眼を閉じること。

☆  神は人間より蝿のほうを好んでいる

☆  アニミズム的な宗教観念は
   正しい。宇宙は大きな機構であり、
   聖なる力の鼓動が脈打つ生きた
   統一体なのだ。 

☆  人間はいっさいのものを人間の利益を通して見る
   これがつまり
   物ごとがありのままに解らない理由なのだ。
   人間は自然にとっては無用のものだ。自然にとってじぶんがなんの役にも立てないのに
   人間はそれを使っている。

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気になる 「かたち」

地梨 じなし       サイズ(3.7 2.7 H2.6)  重さ(12g)
久しぶりに 地梨を見つけた 以前は地梨酒を作ったこともあったけれど すっかり忘れていた
小さいながら見事な造形である  わざわざこんなに不格好にならなくてもと可笑しくなるが・・・
なにか切羽詰まった 理由でもあったのだろうか    どこかしら 黒い織部の茶碗に 似ていないこともない
いわゆる ブスカワイイ というものか

どうして 今年は こんなに・・・

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背面大黒

亡くなった親爺が、「今年は・・・の年回りだからなぁ・・・」なんてことを半分自分を慰めながら、また嬉しそうな顔をしながら呟いていたことを思い出す。思いどうりにいかぬことが多かったり、親類縁者・知人・友人との死別、また良い事ばかりがその年におこったりすると庭の樹などを見ながら、細い躰に似合わぬ野太い声で自らに語る様に呟くのだった。丁度この時期、もの云わぬ季節が人をもって語らせる。

この 「今年は・・・の年回りだなぁ~」を、ぼくが実感している。

自分の仕事以外のことに深く関ることが幾つかある。そもそも良くも悪くも自分の思いどうりに生きて来れたから,少しは他人(ひと)のためにも働けと、どなたかに操られているのだと理解している。生来,人との関りを極力少なくして生きて来たものだから協働作業・交渉事は不得意中の最たるものだが、こんなときには意外に人との出会いがそれを補ってくれるものだと感じている。 別段奇策を弄さぬとも、納まるところに納まるのだ。

直観と行動と細部までの拘りが、あと自らの心に恥じるところがなければ、それに伴う結果に従えばいいのだ。この「年回り」という言葉にも人のちからの及ばぬ物事に対し、いたずらに抗うことを戒めた知恵のようなものを感じる。  ふとレンズを向けた、土つくりの古い大黒様に背負われている大きな袋には、案外そんな先祖伝来の知恵が一杯詰まっているのではないかと、この迷走する時代を憂いながら・・・思った。     (・・・少し綺麗にまとめ過ぎたか。)

緑珠玲瓏  

「緑珠玲瓏館」(塚本邦雄著)はもともと「緑色研究」というタイトルで自歌自賛を試みた歌集である。
緑という色が発するイメージが《いにしえ》から様々な言葉に引用されてきたことを知った。
まだ、緑にまつわる事柄が色々ありそうである・・・。  
ー緑についてー
それによると「緑酒はそのまま美酒の謂いであり、また緑字は瑞祥を記す文字のことである。一方緑林が盗賊の別称であり、緑窓を婦女の居室とするのもこころにくい。緑は深く広い。緑眼は濃い藍色の瞳であり緑髪は漆黒の髪の美称だ。空も海も碧であり、青葉・青山と一つになる。」 また「京紅を濃く塗った口紅は玉虫色と言はれ、赤インクを水に流すと緑金の油紋が浮んだ。赤陽に一瞬目をやき、瞑った時瞼の裏には緑の残像があった。」 僕のオーラも緑であるらしい。 
織部を象徴する緑釉も窯のなかで時として補色の真紅を呈することがある。家の周りの草葉にカメラを向ければテキストとしての「緑」が溢れている。