亡くなった親爺が、「今年は・・・の年回りだからなぁ・・・」なんてことを半分自分を慰めながら、また嬉しそうな顔をしながら呟いていたことを思い出す。思いどうりにいかぬことが多かったり、親類縁者・知人・友人との死別、また良い事ばかりがその年におこったりすると庭の樹などを見ながら、細い躰に似合わぬ野太い声で自らに語る様に呟くのだった。丁度この時期、もの云わぬ季節が人をもって語らせる。
この 「今年は・・・の年回りだなぁ~」を、ぼくが実感している。
自分の仕事以外のことに深く関ることが幾つかある。そもそも良くも悪くも自分の思いどうりに生きて来れたから,少しは他人(ひと)のためにも働けと、どなたかに操られているのだと理解している。生来,人との関りを極力少なくして生きて来たものだから協働作業・交渉事は不得意中の最たるものだが、こんなときには意外に人との出会いがそれを補ってくれるものだと感じている。 別段奇策を弄さぬとも、納まるところに納まるのだ。
直観と行動と細部までの拘りが、あと自らの心に恥じるところがなければ、それに伴う結果に従えばいいのだ。この「年回り」という言葉にも人のちからの及ばぬ物事に対し、いたずらに抗うことを戒めた知恵のようなものを感じる。 ふとレンズを向けた、土つくりの古い大黒様に背負われている大きな袋には、案外そんな先祖伝来の知恵が一杯詰まっているのではないかと、この迷走する時代を憂いながら・・・思った。 (・・・少し綺麗にまとめ過ぎたか。)