=型= 型とは何か・・・と考えるまでもない、ヒトの暮らしの日常を見渡せば有形無形の事々に、例えば道具の使い良さを求めるための型があり、また人間関係を円滑にするためのルールや言葉遣いの型がある。型を知りまた型を身に付けて、物を作り日常を送ることで得るものは多い。それを師匠や親からの言葉や仕草から覚えることもあるだろうし、それとは知らず日々の暮らしの中から身に付くこともあるだろう。生まれてから死すまで“型”によって生かされていると言ったら、言い過ぎだろうか。
松尾芭蕉はこんなことを言い残している・・・
「祖翁口訣」より
=翁曰く、格に入りて格を出でざる時はせばく、格に入らざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出て、初めて自在を得べし。=
★自在⇔輕み⇔わび
「輕み」とは「まこと」が時・所・人に応じて現われるさいの自在さに謂いである・・・ 倉沢行洋著 「対極 桃山の美」より
そんな型の側から、織部をみるのがぼくは好きなのである。
織部焼を自由奔放・豪放磊落・ヒョウゲモノと形容するだけでは片手落ちだと考えているからである。
筒向付・のぞき・深向付 ・・・
筒向付という器の種類を知っている人は 案外少ないのかもしれない
・・・ 織部ではその頃随分作られているが 茶席では一器多用の道具として重宝がられてもいたのだと思う。
懐石の盆のうえでは 深い底に少しばかり 珍味を入れて出したとか客は中に何が入っているか分からないので 手にとって覗きこむのでまたの名を ”のぞき” “深向付” とも謂う。
煙草盆にちゃっかり入り込んで 煙草の火だねを入れる”火入れ”になり済ましていたり 聞香の席で”香炉”として手の中に納まっていることもある。
いまでは器の絶滅危惧種のように云われることもあるが・・・。 個人的に好きなので毎回新しい型も作るし 何か新しい使い道は ない物かと 無い知恵を絞って愉しんでいる。
今回も新たに5種型を作った。
現在60種を超えた。
右の写真は、土型。
下も同じ 新規に作った物。
これらの土型を使い 筒向付・火入 はいうに及ばず 銚子・徳利・蓋付の小鉢・豆皿・掛け花入れ・・・などを作って来た。
補) ある著名な料理人の方の話では 7.8分まで砕いた氷を詰めて、そのうえにお造り、あるいは手頃な葉をのせてやはりお造りを盛るという。
魯山人は少し大振りの八角の筒向付を随分作っている、使い勝手が良かったのだろう。形によってはビール杯・湯呑みにも使えるし、ちょっと一輪花を挿しても絵になる・・・などと、使い方など知ったかぶって書くなんて野暮なことだと気づく、使い手が思い付いたことを好きなようにやってみればいいことだ・・・。
雪虫・・・飛来
花と虫だが 知らない時には 見えなくて 一度その名前を覚えたり 写真などで観たりすると そう日を置かないうちに 目の前に現われてくることがある。
ひとつは ”ねじ花”だった 深沢七郎の小説”みちのくの人形たち”にその名前がでてきて、図鑑で調べその姿を知った。小さなピンク色の花が螺旋状に付いている愛らしい花だ。そんな花もあるのか・・・とさして気にもしていなかったのだが、数日後にたまたま歩いていた山道で立ち止まった其処に まさに目の前に咲いていたのである。それからはさまざまな場所で出会うことになる・・・。
そして今回の“雪虫”ということになるのだが、数日前にツイッターに出ていた写真を見て知ったばかりだった。北海道や東北でよく見かけられる、初雪を知らせる虫ということだったから、我が家のある戸隠では見ることなどないと思い込んでいた。そして昨日の朝、昼ごろからは雨になるという天気だったから、気温次第では山のうえは雪になるかもしれないな、などと思いながら雪囲いをしていると ひとつだけ白い雪のようなものがフワフワと飛んでいたのである。
ここに”名づける”とか”意識化”することの意味があるのかもしれない。
創作とは、何も見たことも無いものを創り出すことではないようだし、おそらく その目の前のまだ”名づけられもせずに”あるモノやコトに意味を見出し、名前を付けることがその役割なのでは・・・と少し脇道の視点で考えてみたが・・・どこかで読んだことのあるなと思いなおした
クレーか? 人の主観なんて 随分危ういものだ・・・更には 随分見落としているものもあるのだと想った。