瀧口先生が亡くなられました・・・合掌

先生が亡くなられた・・・1月19日   享年88歳でした

先生の元に居たのは僅か6ヶ月でしたから、師というのも先生と呼ぶのも憚られるというものですが、紛れもない師でした。僕の焼物の仕事を決定づけた人は他にはいません。45年のお付き合いしていただいた。僅かな時間しか居なかったせいか、こまごまとその頃のことを覚えている。
初めてお目に掛かったときに「これも縁だから車の免許だけとれたら来て下さい。」といわれてならばと、築地でアルバイトをして日当をもって教習所通いをして車の免許を取った。ハイエースをレンタルして雨の日に高速道路を走って、可児市の山中に荷を降ろし、名古屋まで車を返しに行った。ステレオとロッキングチェアと本と寝具を持って行ったので「今どきの弟子は、荷物が多いな~、僕の時は風呂敷包み一つだった。」と言われてしまう。大きな背の高いクヌギ林の中にある先生手作りの家で屋根にはブルーシートが雨漏り対策で被されていた。(瓦で葺いてあるが、拾いもので雨漏りがするのだ)と言っていた。晩ご飯が済むと歩いて3,4分の下宿に帰るのだが、月明かりも無く真っ暗闇で何も見えない、手探りしてもどっちに行けば良いのか分からず、懐中電灯を借りて帰った。嗚呼こんな闇というものもあるのだと知って感激していた(まあ良い時代だった)。 3歳と1歳の子供たちがいた。遊び相手と道普請と石垣作りでほぼ5ヶ月が終わり先輩が四年の修行が終わり独立したので窯作りの手伝いに車で30分~40分ほどのところまで毎日(1ヶ月ほど?)通っていた。その時の築窯(職人さんは大前さんという多治見の名人と云われた方)の方法を克明に記録していたのでその後大変役にたった。そこまでで僕の修業時代はぷつりと終わる。
おそらく、焼物屋の暮らしぶりというのを教えて貰ったのだと思う。その後は無意識に瀧口先生の暮らしぶりをトレースするようになる。「刷り込み」という事があったのだと思う。

・・・最期にお目に掛かったのは2年前頃だった。何かの切っ掛けでお電話を差し上げてその時にもう薪の窯を焚かないからうちにある薪を持って行かないかと言われ400束ほどを二度に分けて頂きに行ったときだった。帰りしなに「これが最期になるかもしれないね~」「元気でね。」と声をかけてくれた。45年という焼き物生活の間には、語り尽くせない程の思い出がある。感謝に堪えない。私信(昨年のもの)を載せるのは、失礼かと思ったが行間に優しさが滲んでいる文章が好きなので思い出に・・・。

合掌。

 ※陶芸なんて、フラワー産業だから戦争でも始まればたちまち 食えなくなりますよ。弟子入りした当初だったかな。おかしな事を云う人だなと思った。昭和13年生まれの戦争体験が背景にあったのかと今にして思う。
 ※この車は、ラジエターに穴が開いているから乗るときには必ず水を入れたヤカンを持って行ってねと言われて、改めてその小型のトラックのボディーにも錆穴があるのに気が付いた。それから間もない頃だったと思うが、「最近この近くの陶芸家のところに弟子に入った若者は赤いスポーツカーで来たらしい、先生よりいい車に乗っている・・・笑」
 ※小山君のところに電話するときには必ずボーンボーンて、柱時計がなるね~ハハハ (1時間以上は必ず話していましたからね~、それに受話器を持つ手が硬直したことが懐かしい。焼物の話の他には瀧口さんの好きなスキーのテクニック(僕も一応スキー協会公認の一級を持っていたから)の話が多かった。
 ※焼物屋が焼物の話ばかりしていても、駄目だね。
 ※僕のところに、半年居たって事は余所の2年分ぐらいは居たと思って良い。 焼物作りの先便を打ったから・・・ね。
(まぁ、そういわれてもね~ とその時は考えた)
 ※12月の窯場での水仕事、外回りの雑事を終えて木桶の風呂に入ると冷え切った身体がいつまでも温まらない・・・「君は寒がりだね~・・・」と言われても 実際寒いのだ
※焼物に使う道具は、全て自分で作れるからね・・・ (この言葉にはハッとさせられた) そうか、自分で作れば良いんだと納得した。
※この小さなぐい飲みが2万円もするんだよ・・・申し訳ないよね~(20年以上前だと思う) へーそんなにするんだ・・・と思った・記憶。同時に謙虚な方だと思った。
※僕が居た頃には(ゆくゆく織部で人間国宝になるかもしれない)と云われていた。おそらく人生を愉しむことを選んだので、組織に入って周囲に気を遣うことを疎んだ。

 


 ※・・・まだまだいろいろ思い出しそう