8/5「美の壺」にちょっとだけ顔を出します

 

 

 

 

美の壺
File 563 桃山の革命 織部焼

【放送日】
◆NHK BSプレミアム・BS4K

本放送 :2022年8月5日(金)午後7:30〜7:59[BSプレミアム・BS4K]

再放送 :2022年8月13日(土)午前6:45〜7:14[BSプレミアム・BS4K]
再々放送:2022年8月18日(木)午後11:00〜11:29[BS4K]
再々放送:2022年8月19日(金)午後0:30〜0:59[BSプレミアム]

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日本国内で土型を使った器作りがいつから始まったのか、まだ調べてはいない。織部焼の向付の特徴ともいえるその技法を使った平向付にはおそらく300種ほど(僕が採集した形は230種類弱でいまだに新しい形に出会うことがある)の意匠が展開されているのではないかと考えている。
今回は、平向付について取材された。560個の大小の土型の内250点余が平向付で、他に小向付、水指、型打ちの皿 、筒向付、花入れなどがある。型を使うことが今では量産のための手法と思われるがそれは、形のバリエーションを生むための手段であることを理解して欲しい。
また、「形」は言葉を介さない意味伝達の手段であり、伝統的イメージの宝庫でもあることに重要な意味がある。

焼物を始めた頃に、不思議に思ったのが織部の向付の種類の豊富さだった。その答えを導くカギとなったのが粟津潔さん(造形思考ノート)が家紋について書き下ろした文章の中の「原理があって、多くのバリエーションを生む」という文章だった。翻って考えてみれば、織部の変化に富んだ意匠を繰り出したのは、他ならぬ京都の意匠家たちであれば合点がゆくというものだ。とはいってもその原理(家紋を描く方法)とやらに則て実際に土型を作り始めたのは、気付いてから10年程経っていたかもしれない。
「原理」思いついたデザインをその原理(製図法)の篩にかけることで、無限の形に統一感を生む。
これは、沓茶碗にも当てはまるのではないかと考えている。
更には和歌の定型詩としての在り方にも通底していると思う。

利休が長次郎を指導しながら作った茶碗は、茶室を構築する神経と同じような計算(人間工学的な)しつくした美しさを求めたのではないかと考える。ことに沓茶碗は、この内的必然性を抜きに成立しない、踊りの振り付けのようなものを僕は感じている。
次に大切なのは、「型」と「即興」の妙とでも云えるところだ・・・。この二つが未分の所にポジションを置くことが出来ればいいなとおもっている。 

・・・などと理屈を捏ねても 器の良さを決めるのはそんなところには無いのかもしれない。計算し尽くした気まぐれな何かと・・・思って間違いない。

織部について (緑色考)

どうも 高血圧真っ只中のようで今日は、気ままに過ごすことにした。

織部については、固定ページに色々書き連ねているけれど、内容の更新はしていないので、訂正しなければならないところもあるかもしれない。
それはまた後日の作業として・・・。

緑の色一つとっても、「緑」は不思議な色相だ。「もののけ姫」の中で宮崎駿さんは、6000種の緑色を使い分けたと最近知った(聞いた)本当だろうか。6000色?という色相とは…と訝しく思わないでもないが、緑とはそういうものだとも考えられる。日本の四季を通して緑とは補色の赤まで、変幻する色彩なのだと思う。緑とは単に一つの色ではなく四季の移ろう姿(色)の総称のようなものなのではないのだろうか。
登り窯を焚き始めた当初から、窯の中で焼かれた織部釉には、四季折々の色合い(発色)があると考えていた。だから「綺麗なミドリがいいな」とか言われると 「綺麗って何?」と問い返していた。分かりやすいからといって「ザ、緑」みたいなものだけ追いかけて多様なものを捨て去ってゆくようなことは、出来なかった。織部焼の多様性は、形や文様だけではなく、色の変化にもいえることなのだと思っている。
五行思想を背景に、焼物(器)に青(緑)・黄・赤・黒・白 ・・・五色が揃った(揃えようとした)のが 桃山時代のの美濃陶ではないだろうか。

【五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は七曜の命令)の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。】ネットから

         続く

4/8~4/12 しぶや黒田陶苑個展 終了いたしました

一年が経つのが早い気もするが ゆっくり時が過ぎている あるいは止まっているような気がしないでもない

今回の個展では茶碗と陶仏がメインとなります
茶碗もベーシックな靴型の茶碗を集中して作ってみました

世界的な伝染病と世界的な戦争(そう言ってよいかどうかわからないが) ともあれ8日9日10日と上京して店に居ります



 

 

 

 

志野茶碗 昨年後半は集中的に沓茶碗を作っていた
黒織部と志野と黄瀬戸とに振り分けて焼いた

 






 

 

 

 

後記)
何と言ったらいいのだろう…このご時世で人の心ここにあらずなのかな~ こんな思いが湧いたのは初めてのこと    
・・・手ごたえが薄い

自分のモチベーションも何か具体的なものをつかみ損ねているような心もとないものがあるのかもしれない 実際この投稿もなんだか中途半端なままで済ましてしまっている(笑)

 

SNSをやっているとブログの更新を忘れる

コロナ禍に突入してからというわけでもないが
年月のの経過が判然としなくなった・・・
加齢的にそう感じるのかもしれないが 大概他人に聞いても同じようなことを感じているようだ

そもそも「時間」という言葉が余所余所しいし 実態を捉えた言葉とは思えないどんな言葉ならいいのかと考えると適当ではないが「うつろい」というような自然に対応する感覚から生まれたものだろうか 他にも古語の中にある種の響きを伴ったものがあるかもしれない 

 

年が明けてどんど焼きも済み一月も終わろうとしている
コロナ禍で露わになって良かったこともある
それは現在の日本の政治経済の悲惨な状況だと思う
政治は汚濁し 経済は破綻していることが明快になったことだ
大手メディアの情報が真実とはかけ離れ政権寄りの広報となってしまったことでロボトミーとなった大衆というものがいる

大切なのは気付くことで嘆くことではないから それを踏まえてどう対処して行けばいいか考えるのも愉しいことではある