炎芸術NO159に掲載して戴きました

炎芸術さんに昨年に引き続き作品制作について等取材していただきました。

「古典と現代」という括りで、編集主幹の松山さんが工房に来られての取材です。向付などの型を500種類以上作っていることに興味をもたれたということでした。伝統的な物作りの世界では、本来は一子相伝で制作の極意などを伝えてきたところもありましたが、現今は伝統の意味するところも技術も伝え残す事が危ぶまれています。
土、釉薬、筆、薪、、、窯など基本的な材料、道具もまたしかりです。
向付の形の意匠の種類が矢鱈に多いな~というのが焼物を始めた頃から印象で、そのまま40年以上その辺りをうろうろしている。その結果560種もの土型が仕事場を占拠した。一昨年から「古典の写し」を再考しようと思い同じ意匠でも古いものを解像度を上げて作り直しをしている。

 

 

織部の特に初期のもの完成度はとても高いと考えている。要するに初期においてコンセプトが明確に意識されており、それに基ずく方法論とそれに携わる職人と発案者との意思の疎通が十分になされていたことの証左なのだと思う。そこでそのコンセプトと方法論を俎上に乗せなくてはならない・・・

つづく

伝統といっても

いつから始めるのか なにを掘り下げるのか どう領域を設定するのか・・・
※民博の会員(といっても季刊誌が送られて来ただけだが)であった1990年代4年間の時期があって そこで日本人の神概念の出自とも云えるアニミズムを捉え直した岩田慶治さんに出会った アニミズムを起点にあるいは領域として考察すれば舞踏も織部も和歌も同じ土壌から生まれた芸能?と云えるのではないか・・・と思う 

現代とは伝統への丁寧な上書きである ともいえる

新規のものに対してのオリジナルという作品に対する判断は 多分に歴史の浅いアメリカのコンプレックスから生まれた基準に過ぎないのではないかと考えている まずは寄って立つその民族なりの持つ考え方の基本をしっかりと身につけることが 後々新しい芽を生むところとなる・・・墓穴を掘ることになるが修行がたり無い自分への戒めでもある 

5/24~28 しぶや黒田陶苑さんにて個展・・・ 終了

青織部平向付 桃山時代の物の写し5種
狛犬阿吽 今回の制作で古い物の作り方はほぼ理解できた
命の徒のめでいしことのいとなみのはな、うを、しし、土の神さぶ (琳譜) 琳譜さんの歌が好きで今回も使わせていただいた

毎年行っているしぶや黒田陶苑さんでの個展も30回を超えている。毎回同じところで個展が出来ると云うことは作り手にとって積み重ねの様子が窺えるまたとない場所である。
本当に感謝にたえない。
いままでは織部の道具の種類の多様さを追いかけて「小山くんは、楽しそうに織部を作っているね~」などと声を掛けられることが多かった。それは、どんな方法論が基本にあるのかの僕なりの手探りの制作の結果だったのだけれど・・・。
あまり浅学の身で生意気なことを書くと足元を掬われるので控えた方が良いのだが元来身の程知らず、恐い物なしでやってきたのでその辺りのこともこの際ここに書いておいても良いかもしれない。それにそろそろ道具の作りを掘り下げてゆくことにも力を注いだ方が良い時期かもしれないと思い始めている。
そんなこともあって、一昨年辺りから古典の写しを改めて作り始めている。伝統芸能でも同じ演目を年齢のそれぞれの節目に演じているように作ってみたい。

社会情勢の著しい変化の現れが感じられた機会でした。

瀧口先生が亡くなられました・・・合掌

先生が亡くなられた・・・1月19日   享年88歳でした

先生の元に居たのは僅か6ヶ月でしたから、師というのも先生と呼ぶのも憚られるというものですが、紛れもない師でした。僕の焼物の仕事を決定づけた人は他にはいません。45年のお付き合いしていただいた。僅かな時間しか居なかったせいか、こまごまとその頃のことを覚えている。
初めてお目に掛かったときに「これも縁だから車の免許だけとれたら来て下さい。」といわれてならばと、築地でアルバイトをして日当をもって教習所通いをして車の免許を取った。ハイエースをレンタルして雨の日に高速道路を走って、可児市の山中に荷を降ろし、名古屋まで車を返しに行った。ステレオとロッキングチェアと本と寝具を持って行ったので「今どきの弟子は、荷物が多いな~、僕の時は風呂敷包み一つだった。」と言われてしまう。大きな背の高いクヌギ林の中にある先生手作りの家で屋根にはブルーシートが雨漏り対策で被されていた。(瓦で葺いてあるが、拾いもので雨漏りがするのだ)と言っていた。晩ご飯が済むと歩いて3,4分の下宿に帰るのだが、月明かりも無く真っ暗闇で何も見えない、手探りしてもどっちに行けば良いのか分からず、懐中電灯を借りて帰った。嗚呼こんな闇というものもあるのだと知って感激していた(まあ良い時代だった)。 3歳と1歳の子供たちがいた。遊び相手と道普請と石垣作りでほぼ5ヶ月が終わり先輩が四年の修行が終わり独立したので窯作りの手伝いに車で30分~40分ほどのところまで毎日(1ヶ月ほど?)通っていた。その時の築窯(職人さんは大前さんという多治見の名人と云われた方)の方法を克明に記録していたのでその後大変役にたった。そこまでで僕の修業時代はぷつりと終わる。
おそらく、焼物屋の暮らしぶりというのを教えて貰ったのだと思う。その後は無意識に瀧口先生の暮らしぶりをトレースするようになる。「刷り込み」という事があったのだと思う。

・・・最期にお目に掛かったのは2年前頃だった。何かの切っ掛けでお電話を差し上げてその時にもう薪の窯を焚かないからうちにある薪を持って行かないかと言われ400束ほどを二度に分けて頂きに行ったときだった。帰りしなに「これが最期になるかもしれないね~」「元気でね。」と声をかけてくれた。45年という焼き物生活の間には、語り尽くせない程の思い出がある。感謝に堪えない。私信(昨年のもの)を載せるのは、失礼かと思ったが行間に優しさが滲んでいる文章が好きなので思い出に・・・。

合掌。

 ※陶芸なんて、フラワー産業だから戦争でも始まればたちまち 食えなくなりますよ。弟子入りした当初だったかな。おかしな事を云う人だなと思った。昭和13年生まれの戦争体験が背景にあったのかと今にして思う。
 ※この車は、ラジエターに穴が開いているから乗るときには必ず水を入れたヤカンを持って行ってねと言われて、改めてその小型のトラックのボディーにも錆穴があるのに気が付いた。それから間もない頃だったと思うが、「最近この近くの陶芸家のところに弟子に入った若者は赤いスポーツカーで来たらしい、先生よりいい車に乗っている・・・笑」
 ※小山君のところに電話するときには必ずボーンボーンて、柱時計がなるね~ハハハ (1時間以上は必ず話していましたからね~、それに受話器を持つ手が硬直したことが懐かしい。焼物の話の他には瀧口さんの好きなスキーのテクニック(僕も一応スキー協会公認の一級を持っていたから)の話が多かった。
 ※焼物屋が焼物の話ばかりしていても、駄目だね。
 ※僕のところに、半年居たって事は余所の2年分ぐらいは居たと思って良い。 焼物作りの先便を打ったから・・・ね。
(まぁ、そういわれてもね~ とその時は考えた)
 ※12月の窯場での水仕事、外回りの雑事を終えて木桶の風呂に入ると冷え切った身体がいつまでも温まらない・・・「君は寒がりだね~・・・」と言われても 実際寒いのだ
※焼物に使う道具は、全て自分で作れるからね・・・ (この言葉にはハッとさせられた) そうか、自分で作れば良いんだと納得した。
※この小さなぐい飲みが2万円もするんだよ・・・申し訳ないよね~(20年以上前だと思う) へーそんなにするんだ・・・と思った・記憶。同時に謙虚な方だと思った。
※僕が居た頃には(ゆくゆく織部で人間国宝になるかもしれない)と云われていた。おそらく人生を愉しむことを選んだので、組織に入って周囲に気を遣うことを疎んだ。

 


 ※・・・まだまだいろいろ思い出しそう