いい所を見つけた。京都駅から乗ったバスが苔寺行きだったので揺られるまま終着まで・・・苔寺は予約制とかで、さて何処に行ったものかと思案していたのだが、一休禅師生誕の寺との看板があったので行ってみた。鈴虫寺という所には人が向かうがこちらは、あまりいない・・・。
総門を潜ると左に小さな古い受付の小屋があって、イイ感じ・・・。
正面に地蔵堂が見える。胸部から下が金色に鈍く光り、とても荘厳な佇まい。そこを右に更に進み門を潜ったところに、夢想国師の高弟が作った庭が観れる建物がある。緋毛氈の敷いてある縁側で・・・その空間にすっぽり包まれるような感じがした・・・暫らく休んだ。竹の軋む音、ヒヨドリの声、不規則な岩の配置(一六羅漢を表しているという)、手入れのされた木々の枝、幾種類かの苔、大きすぎず、華美にならずに落ち着いた佇まい。そういえば、地蔵堂の前ですれ違ったお坊様はご住職だったのでは・・・。ここは、また来ようと思った。
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ハイブリット織部
異質なものを掛け合わせて一つのものにする。いい方は色々あるだろうけれど
・・・・。古染付の器の形に織部の絵付けをしていて、そうかこれはハイブリット
ということだな~と思い至った。桃山頃の作り手たちも同じことをしていたんだ。
大体創作、ものを作りだしてゆくプロセスとは引用のセンス次第で無限の展開が可能な
遊戯の世界みたいなものだ。陶器の素材である、粘土は異素材の形を借用するには、
もってこいの可塑性を有している。ハイブリットということをコンセプトにして
織部の領域を拡げてゆくことも出来るかな・・・・なんて考えた。
京都ギャルリー正観堂にて12/15~12/24個展 終了いたしました<(_ _)>
いつも京都の個展は楽しみだった 正観堂さんで出会う人々、河の流れ、街並み、骨董店を覗くこと、裏道から裏道を抜けて沢を登りけもの道に迷い、また寺の裏に出て、表の歴史にも晒されることなく時間が止っている 人間の遺物に出会う 来年はどうなるか まだ決まっていないけれど また訪ねたいと思う 今回も不思議な御縁に支えられ 愉しい展示会でありました
ご来場いただいた皆様ありがとうございました
焼物に手を染めてから織部ばかりを作って来た。40年やって来て、まだ作り厭きない・・・多分それは織部という焼き物の持っている指向性のためなのではないかとこの頃想っている。
どんな指向性があるのかは、明快に言葉に出来ない。生物の進化期にカンブリア紀というのがあって生物の種類が爆発的に増えたようですが、それがイメージ的には一番近い。絵柄・形態・色彩・道具類といったものが夫々展開し重層的に無限の
変化を繰り返してゆく。
それを可能にしたのが、連歌や意匠化のイメージの世界とどのように作り込むかという人間工学的なシステム(楽茶碗の作りとか・・・)の創作が行われたこと、需要の元となる茶会が盛んに行われたことなどによるのだろうか。
・・・・・京都で毎年個展をしたいといま思っている。物を作ることにしっかりと向き合える環境が揃っているから・・・。
12/15,16終日在廊いたします。17,18日は市内におりますので、来廊の節はお声かけください。
戸隠神社奥社「親しみへの奥の手」
最近 早朝に散歩をしている 一時間ほど近所をぶらぶらしていたのだが 飽きたらなくなり
車で奥社まで行き 参拝散歩と相成った 宗教的なことには興味はあるのだが 不思議と
信仰に目覚めることがないまま現在に至っているのだけれど 鳥居を潜るというのは宗教とは
また違った 身体行為に由来する秘義のようなものではないかと感じている ・・・ ともあれ
片道2キロのうす暗い参道を歩いていると リスや鹿 小鳥が出迎えてくれる それにとてもいい
甘いといえばいいのか ・・・なんとも芳しい薫りが漂っているのである
途中 飯綱神社・石仏など丁寧に廻りながら 奥社・九頭龍社を参拝したころに丁度東の空が明るさ
を増して陽が昇り始める 復路を後から来た人たちと挨拶を交わしながら樹齢400年の杉並木や周囲
の森に降り注ぐ陽光を眺めながら歩いている
最近気付いたのだが この参道の脇には古い修験道の講堂跡や史跡が藪に隠れてあってついついそちらにも
分け入ってみたりしているのだが 最初の頃は身体がそのような空間に同化出来ずに違和感があったものが 次第に
自身の持つ空間感覚が拡張されて解け込めるようになった・・・気がする 「場」とはそのようなものなのだろう
普段あまり意識することはないが 感覚の解像度を増してゆくことも身体感覚の拡張も「親しみへの奥の手」
なのだ